スーパーの見切り品ワゴンに
真っ赤な野菜があったので、
スイスチャードかなと
手に取ってみたら
ルバーブだった。

まだ、
一度も調理したことのない素材で
百円くらいだったので買ってみた。

さっそく、AIにレシピを尋ねると、
ジャムが定番で、生でサラダもいける、
とあったので、どっちも作ってみた。

素の味は酸っぱく、
フレンチのオゼイ(スカンポ)みたいである。

調べたら、同じタデ科だった。

この酸味は、
シュウ酸によるものなので、
摂取し過ぎるとシュウ酸結石に
なりかねない。

一度だけ、尿路結石の激痛で
入院したことがあるので、
用心に越したことはない。



ミッチャン叔母ちゃんから
チマキを五つばかりもらった。

毎日、黄な粉をつけて
せっせと食べてるが、
最後の一個は
半分に薄切りにして
田楽味噌を塗って
バーナーで炙って夕餉の
一品にしようかと思う。

++

閑職の暇爺になってから、
もう、私的〇連休とするのも
馬鹿らしくなったので、
このリズムに慣れるっきゃないや
と思うようになった。

多趣味な割には、
リズムの急変のせいか、
未だに「やりたい事」が
何なのかハッキリせず、
とりあえず、料理にだけは
専念しているような有様である。

20年来のブロガーなので、
朝の書き込みも
平成/令和の『日記文学』のつもりで
「執筆」という事に仕えてはいる。

・・・なので、
「仕事」にはなってるのだろう・・・。

そして、買い物、
料理の仕込み、食器のセッティング、
本格調理・・・と、ほぼ一日、
蒸したり、煮込んだり、マリネしたり・・・、
と夕餉をカミさんとの晩餐にすべく
手を変え、品を変え、作りこんでいる。

・・・AIに日本文学に見る
「夕餉」の描写を訊いてみた。

ChatGPT:
 日本文学における「夕餉」の描写は、家族の情景・季節感・庶民の暮らしなどをしみじみと伝える重要なモチーフとして使われてきました。
 とくに、昭和以前の作品や私小説、俳句・随筆などでは、夕餉が日常の象徴として繊細に描かれます。

🏠 1. 家庭のぬくもりとしての「夕餉」
夕餉は、「母が支度する」「ちゃぶ台を囲む」「湯気の立つ味噌汁」などを通して、日本の家族や団欒の原風景として描かれます。

📘例:井伏鱒二『山椒魚』より
父が囲炉裏端で米を炊き、母が焼き魚をひっくり返していた。
湯気の立つ夕餉が、狭い土間に沁みわたっていた。

→ 静かで貧しいが、温かな夕暮れ時を表現しています。

🍂 2. 季節と暮らしの情緒
「夕餉」は、季節のうつろいを伝える風物詩としても描かれます。
秋冬の寒さ、春のあたたかさ、虫の声などとともに。

📘例:幸田文『流れる』より
おしんこを刻む音、味噌汁の湯気、庭の闇。
夕餉の時分が、女中たちにはいちばん心が緩む。

→ 働く女性たちの日常と安らぎの時間を夕餉に象徴させています。

👤 3. 孤独・貧しさ・切なさの象徴として
一方で「夕餉」は、ときに孤独や貧しさの象徴としても描かれます。
誰もいない食卓、冷えたごはん、誰かの不在——。

📘例:太宰治『斜陽』より
湯気のない味噌汁、冷や飯、ひとりの夕餉。
母のいない夕方は、まるで時間が止まっているようだった。

→ 夕餉の描写を通して、家族崩壊や寂しさをにじませる技法です。

+++

「漫画図書館」と化した
子ども部屋から、
毎日、数冊引っ張り出してきては、
冷房下の寝室でゴロ寝しながら
駄々羅に読み耽っている。

有難いことに
一読したものでも
数年ぶりのローテーションで読むと、
内容を忘れていて
けっこう新鮮な気分で読める(笑)。

それも、自分の眼鏡に適った
セレクションなので、
違和感なく読めるのもいい(笑)。

読書家なれば、
愛読の書もこうして
再読、再再読して
楽しんでいるのだろう。

古典文学に限らず、
古典漫画も秀作に溢れている。

「クラシック」という言葉は
単に「古い」のではなく、
「時代を超えて残るだけの価値や普遍性、
美しさを備えている」という意味である。

クラシック音楽は、
古くても芸術的価値が高く、
今なお評価される音楽であり、
クラシック映画は、
昔の映画だが、名作として評価され続ける
「不朽の名作」である。

また、
クラシックなデザインと言えば、
古風だが品がある、完成された美しさ、
「洗練され時代を超える美」なのである。

++

やろうやろう・・・と、
思いながらも、
なかなか着手できない事が
いくつかある。

チェロの習得も
その一つだが・・・。

毎日、眺めてばかりいて、
ちぃとも楽器を手に取ろうとは
していない(笑)。

いざ、鳴らしてみると、
ズォーンと、腹に浸みる
いい音色に癒されるんだけどねぇ・・・。

構えて、調弦をきっちりするまでが、
億劫なのかもしれない。

ギターだって、
気慰めに・・・なんて
弾こうとも思わない。

いつも、練習か編曲の時にしか
手に取らないような気がする。

最近では、ピアノの蓋も開けっ放しで、
いつ弾いたかわからない楽譜が
譜面台に開きっ放しで、
室内の風景になりつつある。

楽器が好きな事は間違いないのだが、
なんだか、楽しみで音楽をやる・・・
というのが、どこかに行ってるみたいで、
よくないなぁ・・・これは・・・
と、認識はしている。

++
++

おとついの朝方、
目覚めた後も覚えていた夢があったので、
AIに分析してもらった。



あなたの夢はこう語っています❗️

「私は今、社会の中での自分の立ち位置を見失っている。
身体も心も弱っていて、自分を整える時間が必要だ。
だけど、母の記憶や自分の経験はまだ残っている。
少しずつ準備を整え直せば、まだ進めるはずだ」

💡 心理的アドバイス

身体的ケアを最優先に:
痛みが訴えている「内側の声」をまずは医療的に検査・ケアしましょう。

日常に小さな役割を作る:
夢の中で「役割(講師・カメラ係)」が出てきたように、自分なりの役割感が必要です。

思い出に支えられてよい:
亡きお母様との場面は、「生きるために思い出が力になる」ことを教えてくれています。

過去の経験を活かせる形で人とつながる:
落語や談志師匠との記憶も、自己肯定の一部です。それを語れる場所があると、心が元気になります。

---

この夢はあなたの「立ち直る力」や「再出発への意志」が象徴的に表れた、価値のある夢です。