今朝の朝刊で、
「いわき」でクルーズ船下船者が
一人発症したというのを知った。

これで、とうとう、
フクシマ《感染列島》地図に
赤々とマーキングされた。

感染者数は、
約1.200人で
死者は13人なので、
日本における致死率は
およそ1%である。

世界平均では、
3.4%というから、
日本の高い医療水準が
それを留めているのかもしれない。

いずれにせよ、
「60歳越え/慢性腎臓病/糖尿予備軍」
のハイリスクなので、
感染だけは避けたいものである。

なので、
できるだけ、
政府に要請されるまでもなく
「不要不急」の人込みへの外出は避けているが、
近所のツタヤ詣では習慣となって
毎日のように行っている。

そしたら、
一斉休校になってから、
明らかに中坊たちが
群れだってたむろしていた(笑)。

そりゃ、そうだろう。
あの年頃で、家にジッとなんて
してられるもんか・・・(笑)。

ただ、今回の
アウトブレイクの一因には、
無症状性の若者たちが
キャリアとなって
感染を拡大させたというので、
たまり場への外出の自粛要請を
お上から出された。

うちに持って帰って
爺ちゃん、婆ちゃんにうつしては
不孝者の孫になってしまう。




毎シーズン、
フキノトを採りに
「びっき沼」を3-4回も
訪れている。

きのうは、
今シーズン初の
採集に出かけてみた。

沼には薄氷が張り、
あちこちにまだ残雪が見られたが、
日の当たる南向きの土手は
さすがに芽吹き始めていた。

毎年のことなので、
もう、どこにクラスターがあるか
知悉している。

獣なら「狩り場」だが、
山菜は「採り場」である。




冬枯れの
茶色の落ち葉の中に
ひときわ目立つエメラルド・グリーン。

その対比効果に
心がくすぐられる。

根茎でつながっているので、
ひとつ見つかると辺り一帯に
何個も生えている。

これが食べ物で
市場価値もあると思うと、
ついつい目ん玉が「$」になり、
ウホウホ言いながら
指先でブキブキと手折っていく。

きのうは
あらかた採りつくして
30ケほどの収穫になったので、
半分はM先生んとこに寄って
おすそ分けした。

帰宅後、すぐに、
熱湯で灰汁抜きしてから、
フードプロセッサーで
味噌、素炊糖、水飴、甘酒、
日本酒で撹拌し、
それからフライパンで炒って
アルコールを飛ばした。

三種の甘味を使うのがミソで、
白砂糖のみでは
味がフラットになるのを
テイスティングして改良した。

出来上がった「ばっけ味噌」は、
酒によくって、おまんまにも佳い、
佳肴、佳菜になった。



ただ、今年のフキノト採りは、
例年のように“こころ踊る”ような
ワクワク感があまりなく、
収穫後の満足感も薄かった。

思うに、コロナ騒ぎの不安感で
いくらか抑うつ的気分になって、
ベースラインが
下がっていたのかもしれない。

重症者は肺のレントゲン写真が
真っ白になるというから、
そうなって喘息みたいな
呼吸困難で死ぬのも、
癌で何か月も苦痛を伴うよりは
マシかなぁ…とも、
死に様についても考えた。




今週のY中の卒業式に着る
衣装合わせをしてみた。

事前に訊いてみたら、
先生方は礼服か袴だというので、
自分は黒礼服でなく「袴」派の
カラフル路線でいくことにした。

校長・教頭・担任は
卒業証書授与を執り行うので、
礼服が正装だが、
こちとら参列嘱託職員なので
すこしでも華やかな方が
春めいて、寿ぎ感があって
よかろうかと思う。

女性教員の袴のカラフルさに伍する
カラーリングをコーデしてみた。

姿見で自撮りするには、
おへそんとこで
カメラ構えなきゃダメだって
初めて気が付いた(笑)。



毎日、YouTubeの
『エハン塾』を視ていて、
大分とスピリチュアルな命題に
ブレイクスルーが起こりかけている。

今の最大の関心事は
「I am」
(私は在る。私である)
ということは、
「Thinking」(思う/考える)
「Doing」(する/行う)
よりも上位の根源的なこと、
ということである。

モーゼが
十戒を授かったシナイ山で
神に対して
「あなたは誰ですか?」
という問いに
「I am」
と神は応えた。

それがヘブライ語の
「ヤハウェ」だという。

「私は在りて在るものである」
「私は在る」
というのは
主体的な自意識を持つ「存在」
それが神であり、
「I am」である。

イエス・キリストが
一貫して言っていた
「あなた方は神の子である」
というのは、まさしく、
「I am」という自意識、
自分という存在感こそが
「神」の実態ということである。

金光教教祖も
「この方も神、その方も神」
と仰っていた。

キリストは
「神の御国(天国)は、
どこにあるんでしょう?」
という弟子たちの問いに
「あなた方の間に在る」
と応えている。

つまり、
「I am」という
「存在」そのものが
「神」なのだから、
まさしく、天国とは
「今ここに在る」ということになる。

しかし、現実には、
コロナ感染やら、紛争やら、
環境破壊やら…と、
人間を巡る問題は山積している。

これをどう考えるのか…。

あなたも私も、
彼も彼女も…、
トランプも習近平も…、
「神」だというのである(笑)。

「何も無い」世界、宇宙では
「何も始まらないし、何も終わらない」。

アインシュタインは
「私が居ようが居まいが、
月はそこに在る」
と明言したが、
それは、
「そうであるはずだ…。
そうでなければ馬鹿げている」
という、物理学者らしからぬ
信念であり思い込みであった。

実際は、
世界中のラボでの実験から、
量子力学の正しさが証明され、
電子はあらゆる処に遍在しており、
観察者が「存在」して「意識」して
観察を行った時に収斂して
現象化/存在化するのである。

そこから、
「存在」と「自意識」がなければ、
観察され得る宇宙や世界、現象界は
常に顕現しているものではない、
ということになる。

宗教、哲学、量子力学の定説が
今、一つの統一論に
帰結しようとしている。

つまり、
まず「I am」ありき、
その後の「宇宙(宇=時間/宙=空間)」
なのである。

『般若心経』の
「色即是空 空即是色」
も正しかった。

全てが「空」(自意識/存在)だからこそ、
「色」(宇宙/物質/現象)が生じるのである。

アインシュタインの公式
「E=mc²」
も、目には見えないが
確かに「存在」するエネルギーと
目に見えて質量を持つ物質は
同じ事物の両側面と示している。

そこで、
ダイバーシティ
(Diversity/多様性・相違性)が
問題になってくる…。

じゃ、何故、
「存在=意識=神=I am」は
世界の二極性、あるいは、
複雑性を生じせしめたのか…。

思考実験として、
単純化して、
「真善美聖」に対する
「偽悪醜邪」。

「生」に対する「死」…。

ここにおいて、
「人間中心の価値原理」に気が付く。

「真善美聖」を「いいもの」とし、
「偽悪醜邪」を「わるいもの」と判断するのは、
価値観である。

「生」は「よくて」
「死」は「わるい」
…も同様である。

じゃ、「右と左」「上と下」
「+と-」「N極とS極」
「酸性とアルカリ性」などに、
「よい/わるい」があるか?

あるワケがない。
これは「極性/方向性」の違いに過ぎず、
価値観を適用できない。

「ただ、そう在る」という
相対的な異質性・多様性
という「性質」なのである。

変な言葉を思いついたが、
【全てが在り、全てが相対的である】
というのが「多様性」「異質性」が
ある理由ではなかろうか。

しかも、それは
「異質/多様」で在りながら、
全部つながっている。

「始まり」も「終わり」もなく、
永久不変・不滅・定常状態で、
「存在=意識=神=I am」
があり、それが、
宇宙(時空・現象)を生じせしめた。

何故なら、
「存在=意識=神=I am」が
観察し介入せねば、
「何も無い」「何も起こらない」
と同義である。

なので、主体的・主観的な
「存在=意識=神=I am」が
客体的・客観的な宇宙・現象を
必要とするのは理である。

極論すれば、
「存在=意識=神=I am」が
宇宙・現象を必要としたのである。

しかも、
「始まりも終わりもない」
「定常性」の「存在=意識=神=I am」は、
時空・現象を固定・静止したものでなく
「変化・生々流転」する
「相対性」を持つものとして
創りあげたのだ。

「存在=意識=神=I am」は
宗教的な意味でなく
「たましい・こころ・精神」
というものを含めてもいいのだろう。

敷衍・換言すれば、
「始まりも終わりもない」
この「私という自意識」が、
この宇宙と現実を創ったのである。

しかも、
この現象界、リアリティ(現実)は、
根源の「存在=意識=神=I am」の
「場/界」から、あるいは、
それを超越した「純粋実存」から
投影されたホログラムであり、
ダウンロードされた
プログラムである…と、
考える科学者・思想家もいる。

緻密に見え、
触れれば実体を感じる
自分のカラダも含めて、
全ての物質界は素粒子レベルでは、
原子核と電子の距離を考えると
99.9%は「隙間」で
スカスカだそうな。

たしか、
全人類の原子を
「隙間なく」凝縮させると
ビー玉1ケ分くらいにしかならない
とも聞いた。