いよいよ内陸型が来たか
という感じである。

予想通り
V字の中心ラインの内陸に
M7クラスの大余震が起こり始めた。

明らかに、太平洋沖の
カウンター・バランスで
この辺りの活断層が
伸縮し始めたのである。

市内では震度5程度なので
たいした動じもしなくなったが、
それでも今回は地鳴りが凄く、
昨日から今朝まで、地震に先行して
何度もゴーッと唸りを上げている。

朝刊には、人々の
「もう、うんざりだ」
「いい加減、やめてくれ」
というコメントやコラムが載っていたが
同じ被災者として同感ではあるが、
何だか、いつしか、天地の間に
住まわせて頂いている恩を忘れて
怨んでいるような節さえ感じられて
人間って、つくづく感謝のできない
生き物だなと、反省させられた。

そもそも、我われは
自分の意思で「生まれて来た」わけでもなく
望んで「死んで行く」わけでもない。

勝手に生まれさせられて、
勝手に死なされる、
という「不自由」な存在なのである。

これより不条理、理不尽なことはない。

何ものかに、「そうさせられている」
と考えることもできるし
「そうさせて頂いている」
とも受け取ることができる。

作家・曽野綾子の言葉には
深く考えさせられた。
「死を恐れることはない。
 なぜなら、それは偉大な生を
 作り給うた創造主の手によるものだから」


 ありなれて
  天地の大恩を思ふこころが
   うすれてはならぬ

    恩知らずがすべての難儀の元なり
     今更のごとく
      かへりみて思ふ

   世話になるすべてに礼をいふこころ
    はなれてはならぬ 
     なげきにまけて

      目に見ゆるみめぐみよりも
       目に見えぬみめぐみ多し
        天地のみめぐみ

                   碧水歌  
  


避難所の塩ムスビを
食べていたとき、
米も水も海からの塩も
みんな天地の恵みなんだなぁ…と
実感した。

なのに、海が荒れ狂って
「塩水」に呑みこまれて
何万という人が亡くなった。

つくづく自然の恵みと脅威の
二面性を感じさせられた。

塩ムスビを食べながら
碧水先生に倣って
駄歌が浮かんだ。

 避難所でいただく塩むすび
  これも海のみめぐみ
   水のみめぐみ
             飄水




先日の大余震で
いつも通っている堤防の
小道のど真ん中に
亀裂が入っていた。



階段の書棚も
小規模ながら
三度目の本崩れを起こした。

崩れては直し、崩れては直しで
なんだか「賽の河原の石積み」を
しているようでもあるが、
同時に
「負けないぞーッ!
 何度でも、きやがれ!」
と、小さく息巻いている。

でも、庭の灯篭は
さすがに、ネンネしたまんまである(笑)。

こればっかりは
何度も何度も立て直す
気力が湧かない。





土偶人形の「コロリン坊や」は
震度4を越すと、きっちり
コロリンと倒れる。

今朝も、しっかり倒れていた(笑)。

我が家の正確な
センサーなのである。




















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