続・続 人間機雷 310
第六章 夢幻泡影
三 歳月
2 憂国 6
「そうだ。そしてたたみ掛けるように突如、あの悪名高い“ハル・ノート”という一方的な対日要求を通告してきた。これは日本にとっては寝耳に水、予想もしないもので日本政府には、目がくらむほどの絶望感が走ったのだよ。その対日要求は、中国大陸や、仏領インドシナから日本の軍隊を引き上げるなどが、要求のおもなものだったが、このような要求は予想できないでもなかった。
では、なぜこれが寝耳に水だったかというと、アメリカの言い分は、日本がこれらの要求をすべて呑めばABCD包囲網を解く、というものではなく、日本がこれらの要求を呑んだら、ABCD包囲網をどうするかという話し合いに応じる、というものに過ぎなかったんだ。自らは一点の妥協もせず、いささかの犠牲も払わず、ただ日本が要求を呑んで、丸裸になれという無茶苦茶なものだった。こんな高飛車で理不尽な要求は、とうてい呑めるものではない。呑めばこちらは丸裸になって、交渉する際の取引カードがなくなる。つまり、要求を呑んで丸裸になったあとに“やはりABCD包囲網は解かない”と言われても、もうどうすることもできないではないか。このハル・ノートを受け取る以前の日本政府は、アメリカとの関係をなんとか修復したいと、必死の努力を続けていた。しかしこの要求を受け取ったとき、いまやすべての努力が挫折したと知ったのだよ。このとき日本国内に『事態ここに至る。座して死を待つより、戦って死すべし』という気運が生まれた。そして開戦を決意、真珠湾攻撃へと向かっていったのだ」
黒崎が言葉を継いだ。
「あの勝者が敗者を裁くという“勝者による報復”と悪評の高い東京裁判でただ一人、判事の中では唯一の国際法の専門家であったインドのパール判事は最後まで日本の無罪を主張したと聞きます。そのパールが“ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも、矛をとってアメリカに立ち向かうだろう”と言ったというのは有名ですよね」
「そればかりではないぞ。東京裁判について言えばそもそも“戦争は犯罪ではない”といえる。東京裁判があたかも公平であると見せかけるためにも、各国から選ばれた弁護士がつけられたが、そのなかのひとり軍人で法律家でもあった米人ブレークニイ弁護人は弁護団動議の説明の中で『国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りである。何故ならば、国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対してではない』と言っている。だから『個人に依る戦争行為という新しい犯罪をこの法廷で裁くのは誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争が合法的だからである。つまり合法的人殺しである殺人行為の正当化である。たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としてその責任は問われない』と言い、さらに戦争が合法的殺人の例としてアメリカの原爆投下を例にあげ『原爆投下を立案した参謀総長も殺人罪を意識していなかったではないか』とも述べたのだよ。
真珠湾攻撃による殺人罪を告発する検事に『我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである』と弁護し、さらに『何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。それならば彼らも殺人者ではないか』と発言は裁判記録にも残っている。日本人の戦争責任もとにした自虐史観の始まりが“勝者による報復”という東京裁判にある。その原点にあるのがハル・ノートだった」
「なぜアメリカは、そんなハル・ノートというような無茶苦茶な要求をしてきたのでしょうか」
憤慨に堪えない顔で大井が尋ねた。顔が青白くなっている。
続
次回4月23日
こころ絵 『甘苦渋』
甘苦渋
茶の葉に熱湯を注いだり、煎じて飲む煎茶は古く中国から伝わったも
のです。
「一椀、甘く苦さあり。二椀、苦くて人生苦。三椀、渋くて後年の渋さも出ずる茶の味も、人生行路似通いて哲学にさえ通ず」と禅僧の書いた記事の意味がやっと理解できる歳になりました。
人生では甘・苦・渋の味わいも前後に乱れ入り替わってきますが、そ
の時々の味をしっかりと味わい受け止めることで、豊かな人生の味を
味わうことが出来るのでしょう。
かってフランス人の神父カンドウさんも、ある茶人から煎茶の「甘苦渋
の三味」教わり、これこそ人生の味と喜んだと言う有名な話があります。
希望に燃える青年期の人生の味は甘く、中年の人生苦や事業苦はほろ苦いしかし、年齢をかさねると人間にも渋みが出てくるものです。
そんな念いを三文字に表情を持たせて描きました。
続・続 人間機雷 309
第六章 夢幻泡影
三 歳月
2 憂国 5
黒崎は大井にむかい語り出した。
「旧日本軍では“想定敵国”と言った。大正12年に改定された帝国国防方針では、仮想敵の第一にアメリカが挙げられ、総力戦を戦うための物資の供給地として中国を確保し、アメリカ軍とは“漸減邀撃作戦”・・・・つまり諸外国に比べて異例の大きさと航続力を持つ潜水艦や、太平洋側の諸島の基地に展開させた長大な航続力が特徴の陸上攻撃機によって、優勢なアメリカ艦隊が太平洋を西進してくる間に徐々にその戦力をそぎ、日本近海に至って戦力的に互角となってから主力艦隊同士での艦隊決戦に持ち込む戦略だった。そして最後には大和型戦艦など兵器の質的優位により勝利するというのが対米戦の方針であった。その戦略構想は大井君も知っての通り、ロシアに勝利した日本海海戦が基になっていた。だから海戦に重きを置き、空軍力よりも戦艦重視だった。その為に陸上攻撃機の爆弾搭載量や防御力は犠牲にしていたから、戦争末期には敵国の戦力をそぐどころか徹底抗戦も思うに任せなかったのだよ。それが大井君達が最初から生き残るという選択肢を持たない“十死零生”という無謀な特攻作戦が企てられた要因のひとつであったのだと思っているのだよ」
「近頃、その特攻作戦や軍部への批判が高まりつつあるし、元特攻兵というと、いまだに蛇蠍のように嫌われ恐れられけているのを感じます。それが耐えられないほどの屈辱です。死んでいった先輩達の無念さと相まって、行きつくところはいま一度我が祖国のためにこの命を捨てたいという思いだけで恥を忍んで生きているのです」
「その心情はよく分かるが、これまでも何度も言ってきたように、命の捨て方を間違わないことだ」
秋山は大井の眼を覗き込むようにして言った。
「私はこれまで特攻兵達の遺書をたくさん眼にしてきたが、非常に特徴的なことは、アメリカに対する憎しみ、憎悪というものがないということだ。つまり敵愾心がゼロで、そして自分の恋人、あるいは妻、子供、両親への熱い思いだけが純粋に昇華している。あれが非常にいい。どの遺書も美しくさえある。こう言ってはなんだが、大井君がアメリカ憎しだけで凝り固まっていては、散華った幾多の特攻兵の御霊に申し訳ないような気がするではないかね」
「しかし、両先生の話を伺うとアメリカ憎しの気持ちを捨てることは出来そうもありません。アメリカは日英同盟を解消させ、日本への石油禁輸、ABCD包囲網など、日本への挑発を続けたではないてすか。最終的に日本に“ハル・ノート”をつきつけ、ついに直接的な武力衝突へと誘い込んでいったのだと戦後になって知りました」
「大井君はABCD包囲網の全容をしっているかね」
「日本を封鎖するための経済制裁です。AはAmericaアメリカ、BはBritainで英国、CはChinaで中国、そしてDはDutchのオランダ・・・・アメリカが主導してそれらの国が日本に対して石油や鉄をはじめ、生活必需品などを輸出しないと取り決めたものです」
「その結果日本はどういう状況に追い込まれた?」
「もともと資源の少ない我が国は、貿易によって得た原資を工業力で様々な製品にして、海外に市場を求めていく事で成り立ているようなものですから、石油の全面禁輸をされたのでは、車も走らず、飛行機も飛ばず、工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄をわずかしか持たない日本にとってこれは死活問題です。ここまでキツイことをすれば日本は戦争を決意するだろうということは、もちろんアメリカにもわかっていてやったことです。こんな悪辣なことをやられて誇り高い日本人が黙っているわけがありません。放置したら闘わずして負けたことになるではないですか」
続
次回4月16日
こころ絵 『唎酒』
こころ絵 『唎酒』
季節は良し、花見酒をしたくなる季節になりました。
日本酒の“唎酒”のしかたは、ほんの少しの酒を口に含み、舌の上を
ころがすようにして味わいながら、五つの味を感じとるようにするのだ
そうです。

日本酒は“甘み”“酸っぱみ”“辛み”“苦み”そして“渋み”の五つの
味が大切にされますが、うまくバランスがとれていると感じられるとき、その日本酒は“美味しい”というわけでそれを「コク」といいます。
ほかに“唎酒”で判定するのは、色合いと光り具合の「テリ」と、「ヒキ」
という香りも大切な要素で、光ぐあいは透明に澄んでツヤのあるもの
がよいとされ、香りはさわやかな匂いがするものが上等なのです。
まあ、唎酒の真似事をなさるのならその前によく口をすすぎ、手もよく
洗うのは当たり前ですが、タバコを吸う人は少なくも30分前から禁煙
し、香水など香りの強い化粧品は遠ざけましょう。
でも“きき酒をぐいぐいのんで叱られる”(古川柳)なんてことのなき
よう(笑)
「甘酸・辛苦・渋」とはまるで人生の味そのものですね。
唎酒という字をもとに『こころ絵』にしてみましたが“唎酒”の時には
花見の席とは言えこのような赤い口紅もささない方がよいようです。
続・続 人間機雷 308
第六章 夢幻泡影
三 歳月
2 憂国 5
「とくに日本人移民の多かったカリフォルニアでは、駅やトイレ、街角には“ジャップは消えろ”“ジャップを焼き殺せ”のなぐり書きがそこここに見られ、散髪屋に入ると“動物の散髪はしない”と断られ、不動産屋に入ると“日本人が住んだら地下が下がる”と断られたという、涙ながらの体験談を沢山聞いたものだ。いまでこそ政財界の主要人物どもは、アメリカを神様のように思っているが、過去のそういう事実を忘れてはいかん。いまでも奴らの心底には人種差別が色濃く残っているし、このさきなん百年経ってもそれが消えることは無いだろう。もっとも奴らは領土を広げるたびに、星条旗の星の数を増やしてきた。ハワイもそうであったように、日本が星条旗の星のひとつになれば別だろうがね」
「そんなことは絶対にさせません。そのために自分は護国の鬼となって、この命を投げ出します」
「そういう覚悟の若者が独りでもいてくれることが嬉しい。熱いのを持ってこさせよう」
そう言うと秋山は、階下にいる女将に大きな声で“熱燗を頼む”といった。
夜も更け春とも思えない寒さが部屋に忍び込んでいた。
いつの間にか“甲斐路”にも客がきたとらしく、ざわめきのなかで“はーい、ただいまお持ちします”という女将の元気な声が聞こえた。
しばらくして女将が二合は入る徳利三本に、フキノトウの味噌和えの小鉢を添えて運んできた。
「おー、いまどきのフキノトウも珍しいね」
「なんでも白州辺りのものらしいです」
「それも山深いところのものだろうな。ここの親父さんは凝り性だからねえ・・・・」
秋山は女将が注いだ熱燗を口に含むと、ゆっくりと飲み干し、小鉢のフキノトウをつまんだ。
「いやあ、たまらん。春鶯囀は冷やも良いが燗酒も良い。それにこのフキノトウの味噌和えのほろ苦みがじつによく合う。君たちもやってみなさい」
「どうだい大井君。これが年老いた酒飲みの贅というものだが、わかるかね」
「秋山先生。先ほどの田螺やアワビの煮貝にしても、先生の故郷には珍しくて旨い酒菜が多いのですね。このフキノトウも今夜の酒によく合っているようなきがします」
「それはほろ苦い話ばかりしている事への揶揄かね」
秋山が笑いながら言った。
「今夜の酒というのは、この春鶯囀のことです」
生真面目に大井が受け答えをしたものだから、黒崎までが笑い出した。
三人は暫く熱燗を酌み交わした。
「さきほどの話に戻りますが、彼の国にオレンジ計画があったように、我が国にもアメリカを仮想敵国の第一ととらえたのは第一次世界大戦ごすぐのことでした。図らずも将来を見すえた日米が互いを仮想敵国の第一に揚げていたことになります。これも宿命というものでしょうか」
「宿命とは言えないだろう。どの国に於いても軍事戦略や作戦用兵計画を作成するうえにおいて、軍事的な衝突が発生すると想定される国をさだめ、戦時における軍事力の開発、準備、運用を定める戦略をたてている。仮想敵国イコール敵国との誤解も存在するが、必ずしも敵国となるという意味ではなくあくまでも想定だな。それについてはワシなんかよりも黒崎君の方がくわしてだろう」
大井秀敏の問いに秋山が答えた。
黒崎は大井にむかい語り出した。
続
次回4月9日
こころ絵 『春』
ひどい二日酔いの朝「二度と酒は飲むまい」とこころに決めたのに、机の上に出ていた山頭火の『其中日記』を手に取ったらせっかくの決心が失せてしまった。
乞食(こつじき)行脚、一鉢片手に風の中を歩いた放浪の俳人種田山頭火が、山口県小郡に結んだ庵が『其中庵』(ごちゅうあん)で、その時代の日記と俳句をまとめた本が『其中日記』である。
・・・・よい酒とは昨日を忘れ、明日を思はず、今日一日をホントウに生かしきることが出来るやうに 役立つ酒でなければなりません・・・・
とにかく、酒に求めないで、酒を味ふやうにならなければウソですね。
ちよいと出かけて、ちよいと一杯。
山頭火『其中日記』(三)より
なるほどな・・・・みょうに納得して、もう夕暮れが待ち遠しくなった。
『其中庵』の入り口には“訪れる人たちへ”と「庵主の願い」がかけてあったという。
一、甘いもの好きは甘いものを 辛いもの好きは辛いものを持参せら るゝ ならば
一、うたふもをどるも勝手なれど いつも春風秋水のすなほさを失はないならば
一、気取らずふせらず みんないっしょに其中一人のこころを持たるならば どんなにうれしからう
なるほどな・・・・苫屋のごとき我が『ぼんそわーる』の入り口にも掲げようかな。
ちなみに“其中一人のこころ”とは、法華経の『其中一人作是提言』(ごちゅういちにんさくぜしょうげん)という一節からで、“災難や苦痛に遭ったとき、その中の一人が『南無観世音菩薩』と唱えると、菩薩サマは直ちに救いの手を差し伸べられて、皆を救われ、悩みから解き放してくれた”
という、いかにも山頭火の好みそうな話からで、庵を『其中庵』と名付けたのだという。
『歩かない日はさみしい、
飲まない日はさみしい、
作らない日 はさみしい、
ひとりでゐることはさみしいけれど、
ひとりで歩き、ひとりで飲み、
ひとりで作ってゐることはさみしくない』
山頭火のこころの中に沁み込んでくる寂しさが判るような気がして、また想い出した
『けふもいちにち風をあるいてきた』 山頭火
世間の冷たさ暖かさを身にしみて味わいながら、止まるわけにいかず、飄々と旅するしかないオレもまた旅人なんだなあ、とあたらしい創業月を迎える度に、こころの中に漂ってくる“春愁”がある。
もう五拾四回目の春愁だよ。
これを書き終えたらそれを肴に“ひとり酒”でも飲もうか・・・・。
続・続 人間機雷 307
第六章 夢幻泡影
三 歳月
2 憂国 4
秋山はそこまで一気に語ったが、気がついたように冷えた酒をぐいとあおり、熱い語りを続けた。大井は身を乗り出し一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてている。
「ABCD包囲網という経済封鎖から始まったんですよね」
黒崎が言った。
「いやその前に“オレンジ計画”というのがあった。これはなんと明治39年、日露戦争直後にすでに作戦として立案されていた。いろいろな国を色別して、日本はオレンジだったのだが、これは長期的な日本制圧プランだっのだよ。日本を第一の仮想敵国とみなし、戦争準備に着手した計画だった。このオレンジ計画は年々改訂され、最終的にはなんと、日本の本土を無差別に焼き払って占領することまで盛り込まれていたんだ。これは日本人の大量虐殺を意味する。断末摩の悲鳴を上げている終戦間際の日本の広島・長崎に原子爆弾を落としたのも、彼らが言う戦争終結のためなどでは無く、この主旨にしたがったものだった。アメリカはそのような計画を、ヒトラーのナチス・ドイツに対しても、共産主義のソ連に対しても立てたことはない。白人国家に対しては決して立てなかった。ただ黄色人種の日本に対してだけを目の敵にしたわけだ。“いずれ日本を叩きつぶすぞ”という計画であったから、昭和20年の大東亜戦争終結に至るまでのアメリカの行動はすべて、このオレンジ計画に基づいて遂行されたものだったのだ。アメリカ軍は日本の本土爆撃をなし、各都市を焼け野原として、民間人約60万人を虐殺した。兵士ではない民間人を殺すことは、明確な国際法違反だ。しかし、それさえもすべて、もとはといえばオレンジ計画に盛り込まれていたことなのだ」
「なぜアメリカが、日露戦争直後という非常に早い段階に、日本に対してこれほど強硬な姿勢を持ったのでしょうか。まだ日中戦争さえも始まっていない時代じゃないですか」
大井は憤慨に堪えないというように強い語気で訪ねた。
「その根底にみえるのはやはり“アジアに白人が進出するのはOKだが、黄色人種の日本が出しゃばるのは許せない”という、奴らの人種差別意識だな。アジアに対するイギリスの進出はOK、ドイツも、フランスも、ロシアもOK、しかし日本はダメという対抗意識なのだよ。その根底にあるものは人種偏見だ。日米戦争の根深い原因が、そこにあったと知るべきだ。アメリカの日本に対する執拗な嫌がらせと、挑発はこの計画が作成された時か始まっていたのだよ」
「日本をそれほどまでに憎む理由はなんだったのですか」
「そもそもがアメリカという国は、人種差別的観念のきわめて強い国家だった。歴史でも知られるように、インディアンに対する虐殺で始まった国だ。またその後も、近代に至るまで大規模な黒人奴隷制が存在している。黒人奴隷はリンカーンの時代に解放されたものの、人種差別は国内に根強く残っていたのだ。当時のアメリカ国内の人種差別は、ひどい状態でレストランも、トイレも、バスも、学校も、公共施設はみな、『白人用』と『有色人種用』に分けられていた。アジア人種に対する迫害も、すでに1800年代から始まっり、アメリカ西海岸では、ヒステリックな中国人移民排斥運動が起き、虐殺事件も発生している。そののち、矛先は日本人に対して向けられたというべきだろう。この頃の日本人移民に対する迫害も始まっていた。勤勉な日本人移民が成功を収めるのを見て、アメリカ人の中には嫉妬と憎悪に燃える者も多くいるなか、同時に、白人のロシアを破った民族として、恐怖心をも持ったのだ。当時の多くのアメリカ人にとって、日本人とは得体の知れない異星人と映ったのでは無いかな。
そして日本人は油断ならない・日本をつぶすべきだという観念が、アメリカで広まっていったのだろう」
「それが“黄禍論”ですね」
黒崎もすっかり酔いの醒めた顔を怒りに染めてはき出すように言った。
続
次回4月2日
こころ絵 『老』
老
『老』という字は、年をとったとか、衰えたというマイナスイメージがありますが、年をとるということは、経験を積みかさねることでもあり“老練”や“老巧”のような良い意味もあります。
政治家も長いことやっていると、経験を積んで狡猾になったり、悪賢くなり“老獪な政治家”などと言われたりしますね。
まあ、そう言われる前に進退を見極めて引退する方がボロも出ずに済みそうですが。
ほかに『老』には“長い間なれ親しむ”とか“古くから続く” という意味もあり、先祖代々から続くお店を“老舗”といいますし、お酒で言えば中国の“老酒”なども同じ意味で使われています。
“老酒”は日本酒とおなじ醸造酒ですが、長いあいだ甕に入れて密封したうえで貯蔵し、古いものほどよいとされ、これこそが“老熟”の味わいなのでしょう。
“老酒”は浙江省の紹興地方のものが有名で、10年から20年寝かせるといいます。
ともすれば年をとることを悲しんだり、老人を軽んじたりする風潮がありますが“老酒”にみるように、長い年月を経て醸し出す人間としてのコクや味わいを誇って生きたいものです。
サムエル・ウルマンは「青春」という詩の中で言います。
『青春とは人生のある期間を言うのではなくて、
こころの様相を言うのだ。
優れた想像力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春というのだ。
年を重ねただけでは人は老いない。
理想を失ったときに初めて老いが来る』
『老』の字は杖をついた年寄りの姿をあらわす象形文字ですが、向上心はいっぱいなのに『こころ絵』として描くのに難しかったです。
歳は重ねても“老巧”にはほど遠いことを思い知りました(苦笑)
続・続 人間機雷 306
第六章 夢幻泡影
三 歳月
2 憂国 3
「さっき黒崎君が言ったとおり、国際社会において大義名分は国家にある。だから国際社会において、敗者は大義名分を失う。ゆえに敗者は勝者に公正を求めることができないというのが通念だな。敗者が勝者に期待できるのは、勝者の慈悲・憐憫だけだで、勝者が敗者に服従を強要するのはどの古今東西の戦史を見ても明らかだ。敗者は勝者の大義名分を受け容れるしかないが、だからといってこのままで良いはずがない・・・・というのはいうを待たない。
そしてそのすべてが占領軍の思わくによって歪められているとしたら、すでにこの日本という国は幻想のなかでの国家でしかないということになるが、大東亜戦争に限って振り返ってみると、売られた喧嘩を買ってでた日本にも責められる所は多々あるが、喧嘩を売った方の責任にはどうなるのかということだ。近年“戦争責任は双方にある”という論説も見受けられるが、そもそも“戦争責任”という言葉には、日本人の多くは敗戦によって事実上初めて接したのだよ。それまでは戦争や植民地の獲得は国家がおこなう当然の業であるという19世紀的な戦争観を、敗戦までの多くの日本国民は抱いていたからであり、それがいかなる種類の戦争であれ、戦争をすることの責任を問われるということ自体が予想外であったからだ。この言葉が急速に日本人の間に広まっていったのは、連合国側から、東京裁判・BC級戦犯裁判・公職追放の実施という形で、法的・政治的・行政的に日本人の“戦争責任”を問う動きが急速に進行していったからだ。先ほども言ったが敗者は勝者の大義名分に服さねばならない、ということを考えると、戦争責任追及の主体は、何よりも外からの力である占領軍・連合国の側にあった。そしてその占領軍の戦争責任追及に対する日本人の批判は、検閲によって徹底的に禁止されていた。
この時点で“戦争責任”の用語は、二つの異なる意味で用いられていたと言える。その一つは、連合国によって外から追及される戦争犯罪行為の意味であり、そこでは日本国民は加害者の一人として、その責任を一方的に裁かれるかも知れない立場に立っていた。もう一つは、日本国民に被害を与えた国家や国家指導者の責任の意味であり、そこでは敗戦という事態に指導者に“だまされた”と反撥した国民は、戦時中の抑圧や欺瞞に対する被害者としての立場から責任を追及する地点に立っていた。戦争責任と言うことに対する日本人の考え方は、この二つの戦争責任に対して、どのようなスタンスを取るかによって大きな違いを見せたのだな」
「いま多くの日本人が戦争責任は、だまし討ちのような真珠湾攻撃によって開戦した日本にあり、その結末が敗戦であり東京裁判であったと思っています。東京裁判では文人でただひとり戦争を止めようとしていたといわれる広田弘毅が死刑になったのは、いまでも納得できません。その点について秋山先生はどのようにお考えなのですか?」
大井が訊ねた。
「広田さんは極東軍事裁判で、文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となったが、多くの国民は信じられなかった。それが証拠に占領軍の決定に対する反対運動などが皆無だった当時において、減刑するように全国から数十万という署名が集められた程だった。かくいう私もその提唱者のひとりだったがね。東京地区で3万もの署名を集めたのはわしの憤慨ぶりの表れだよ。その時ほど占領軍の横暴に怒っていた時は無かったぞ。
判事のなかには“広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い”と明確に無罪を主張している人もおったと聞く・・・・ワシは広田さんが外務大臣をしていた頃、ずいぶんお世話になったものだよ。その恩義に報いるためにもと、死に物狂いです奔走したが、当時そんな者が通用するわけもなかった。そこにも連合軍総司令官のマッカーサーの横暴をみる。ところがだよ、そのマッカーサーが終戦から6年経った昭和26年5月(1951年5月3日)にアメリカ上院の委員会で、日本の戦争は“自衛戦争だった”と証言しているんだ。その証言によって“この戦争は日本の侵略的態度に対し、アメリカが懲罰に出たもの”という自虐史観が、見直されるきっかけになったと言って良いだろう。
日本は戦いたくて戦ったわけではない。またそれは侵略戦争でもなく、むしろ“自衛のためだった”と証言したんだ。日本と戦った当のマッカーサー自身の証言だから重みがある。日本はなぜこの自衛戦争に出なければならなかった幾つかの要因があることは知っての通りだ」
続
次回3月26日
こころ絵 『猩猩』
猩猩
前回の養老の滝伝説に他にも“水が酒になったという伝説”は他にもあります。
その中のひとつにこんなのがあります。
いまから三百年年以上の昔、薩摩の国の西南にそびえ立つ猩々ヶ嶽
の麓に小さな部落があり、そこにひとりの若者が住んでいました。
ある日、若者が谷川を渡ろうとすると、川淵におおきな猩々が水を飲
んでいるのを見つけ恐ろしくなって逃げ帰りました。
数日経ち恐いもの見たさでその淵の所に行ってみると、この前見かけ
たおおきな猩々がおなじ場所でまた水を飲んでいるではありませんか。
若者は「これは何かあるのかも・・・・」と考え、その日の夕方その淵に
行き水をすくって飲んでみると、それは酒でした。
それからというもの毎日芝刈りや畑仕事の帰りに、そこに立ち寄って
はご機嫌で酔っぱらって村に帰るようになりました。
それを知った村人達がヒョウタンや手桶を持ってその淵に駆けつけた
のですが、もはやそれはただの水でしかなかったという話です。
それから村人はこの淵を“猩々ヶ淵”と呼び、この村を“猩々”と名付
けたそうです。
これは「酒の風物誌」に出てくるのですが、お能の『猩々』では“高風”
という親孝行な若者が霊夢のお告げで、都へ出て酒を売ったところ商
売は大繁盛したのですが、賑わう店の中に毎晩大酒を呑みながら酔
いもせずに帰るお客さんがいるので、ある日その素性をたずねたとこ
ろ「自分は海中に住む猩々である」と告げて立去りました。
おどろいた高風が川のほとりに酒壷を供えて夜すがら待っていると、
猩々があらわれ高風の親孝行振りを称えて、舞い踊ると共に“酌めど
も尽きぬ”酒壺を与えたという話ですが、どうも出典はこのあたりのよ
うな気がします。
薩摩の国の美酒なら芋焼酎ですかね・・・・いちど“酌めども尽きぬ酒
壺”でこころゆくまで飲んでみたいものです。
きっとこんな顔になるのですかね。








