The one lives for the other one. -2ページ目

無知

無知である少年のなんと尊大で美しいことか。

このように感じてしまう私の固定概念や社会常識に囚われた、凝り固まった思考のなんと浅はかなことか。


人は環境と遺伝によって性格が形成されてゆくという、全くもって同感だ。

私が同じ状況下に置かれたとしても、あの少年のようには間違いなくなれないというのはこの道理である。


しかし何故私は美しいと感じるのだろうか、何故これほどまでに涙するほど心揺さぶられるのだろうか。

あの少年がこのまま心乱れず今の気持ちを貫いて欲しいと、何故感じるのだろうか。


全ての事には理由がある。私が感じるこの気持ちにも理由がある。

おそらく、多少の誤差はあるかもしれないが、私はあの少年に羨望という思いを少なからず抱いているのだろう。


生きる意味は人との触れ合いの中にある。外になど出ていない、それは閉じている。

そうでなければ何故、友や恋人や果ては不確定な国などというモノの為に死ねようか。


繋がりが強くなったとき、人は自分以外の人の為に喜んで死ぬことができる。

その境地に達した人のなんと美しいことか。その境地に達する事の、なんと難しく感じることだろうか。



人とのかかわり

人はときに悩みます、へこたれます、弱気になり、死にたいと思うことさえあります。その原因となるものは、人であり、それを修復し得るものもまた人なのです。


結局のところと言ってしまいますが、人間は一人ではあります。しかしながら皮肉なことにその自分をどうこうするのは自分自身の意思などでは全くなく、自分以外の他人であるのです。


他人の評価は実は自分が行っているものではありません。また別の他人の評価をまねしているだけなのです。


人間社会には流れがあります。流れに逆らうと心がやられます。流れにおいていかれても心がやられます。一番楽なのは流れを作っている人たちではなく、流れの先頭から一歩引いて次の流れを見ている人たちです。


人生には「かくあるべき」という道筋は実のところ、無いのです。あるとしたらそれは自分の作り出した虚像に他ならないでしょう。


社会はいわしの群れのようなものです。どんなに他より優れていようと、一匹の意思が集団を導くのに足りるわけはありません。


生きるのは何故?私にはわかりかねますが、人間社会に閉じた、あまり格好のよくない理由であることは間違いないものと思われます。