こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

大河ドラマ「青天を衝け」の前回(第19回 勘定組頭 渋沢篤太夫)は、実に内容盛り沢山でした。

3つの施策(品質の良い年貢米の新たな販路の確保。良質安価の木綿の専売。そして硝石製造所の設立)の実施と木綿売買のための銀札の発行と引換所の立ち上げ。これらにより経済の信用取引が拡大し、領民たちの一橋家への信頼が高まり、御家の懐具合も豊かになることで家中での栄一への評価はますます高まります。

一方、江戸では小栗忠順(おぐり ただまさ)が勘定奉行として幕威回復の施策を次々と講じ始めました。薩摩では五代才助(友厚)が欧州から帰国し、大久保一蔵(後の利通)と共に薩摩の富国強兵に策をめぐらします。

さらに慶喜と幕閣が対立するシーンがあり、大坂城では難事が重なった将軍家茂が心労から倒れてしまうという展開でした。

 

 

さすがにこれだけの多くの内容を45分間に詰め込まれるといささかドラマの展開が早過ぎ、視る側が置いてけ堀にされかねなくなります。ドラマとして楽しめればいいとお考えの方には大きなお世話かもしれませんが…。

当ブログがお伝えしている時期は、今のところドラマの進行とほぼ重なるため時代背景への理解が深まるはずです(いずれ後追い的になることは否めませんが)。また新たな発見があれば、よりドラマも楽しめるはずです。では始めることにしましょう。

 

 

【 第一次長州征討後の動き 】

 

さて前回までで第一次長州征伐が起きてから終結するまでの流れをお話しました。

ところで皆さんも学生の頃、歴史の授業で長州征伐が二度あったと学んだ記憶がおありではないでしょうか。

ではなぜ第二次長州征伐が起き、どのような経過を辿ることになったのか、今回はそのことについてお話しましょう。

 

 

征長総督の徳川慶勝と征長軍参謀の西郷吉之助は、禁門の変で朝敵となった長州藩自らに処置を行わせることで、戦を避け早期に解決する道を探り、その実現に成功しました。

ですが、この処置に対する評価は朝廷と幕府でそれぞれ異なりました。朝廷は京に凱旋した慶勝らを朝廷に招き、天盃を授けました。つまり慶勝の戦後処置を良しとする肯定的な意向を示したのです。

一方、江戸の幕閣と一部の諸藩の間では、慶勝と西郷が行った処置が寛大に過ぎると批判し大いに不満を抱いていました。

 

元治二年(=慶応元年、1865年)1月、幕府は降伏した長州藩主父子と五卿を江戸に呼びつけて処分を江戸で行うと布告しました。この時点では、将軍が進発する必要を認めないと考えていたからでした。

一方、京の朝廷では将軍の上洛を求め、有力諸藩と共に長州問題と今後のことを検討しなくてはならないと考えていました。

3月になると朝廷は幕府に勅書を下しました。要請された内容は、長州藩主父子と五卿を江戸に呼び寄せるのを見合わせ、また旧に復した参勤交代の停止を求めるものでした。この幕府の政策に批判的な勅書が出された背景には、薩摩藩の朝廷への働きかけがありました。

 

 

そんな頃、長州藩内では藩権力を巡って新たな動きが起きていました。

高杉晋作伊藤俊輔(後の博文)らと挙兵し、幕府に降伏した藩政府に叛旗をひるがえしたのです。

 

(高杉晋作(写真中央)、伊藤俊輔(右))

 

 

1月末、晋作らが藩の実権をにぎると藩論を「武備恭順」に転換させました。すなわち表向きは幕府に従う姿勢を取り、攻撃を受ける事態になれば藩を挙げて戦う方針を固めたのです。その後、長州は軍制改革を推し進め、幕府に抵抗する準備を進めていきます。ところが幕府も朝廷も長州藩内でのこうした動きと長州人の決意を知らずにいました。

 

 

【 幕府が第二次長州征伐を決定するまで 】

 

4月(慶応改元は4月7日)に入ると幕府は、長州藩に「容易ならざる企て」があり、悔い改める様子にないとして5月16日をもって、長州再征のために将軍が進発すると発令しました。

同日、家茂一行は江戸を発ちますが、今回は海路を使わず、陸路での上洛でした。三度目となる上洛は、途中、関ヶ原に立ち寄りながらの行軍となり、日数を要しました。将軍一行が京都に到着したのは、およそ一か月後の閏5月22日でした。

 

 

京に着くと家茂はすぐに参内し、長州再征を願い出ます。ですが孝明天皇としては先に慶勝らの戦後処置に承認を与えていますから、再征の目的と理由があいまいな進発を認めるわけにはいきません。一旦、解決に導いた問題を幕府に蒸し返された薩摩藩は当然に反発しました。また薩摩が朝廷に手を廻したこともあり、天皇が上洛直後の将軍の求めに応じることはありませんでした。

 

さらにこの頃は、降伏した長州に敵対する兆候もうかがえなかったため朝廷の内外で再征には反対の声が相次ぎました。

そこで朝廷は、大坂で諸藩の意見を聞き、評議を行い、その上でまとまった意見を改めて申し出るよう幕府に求めました。

 

 

その後、家茂は大坂に向かいます。大坂城に入ったのは、閏5月25日のことです。同月下旬から6月にかけて城内の御用部屋で長州処分問題についての評議が何度か開かれました。この頃は、在阪老中(阿部正外・松前崇広ら)と評議に参加した慶喜・容保との間で意見が対立することもなく、穏やかに話し合いが行われた唯一の時期といっていいかもしれません。

 

この時決定したことは、長州藩の支藩で岩国藩主の吉川監物(経幹(つねまさ))らの長州側の代表を大坂に呼び出し、いくつか問い質した上で処分を行うというものでした。

ところが、すでに長州藩は幕府に対し恭順姿勢を堅持するも、「攻められることがあれば戦いも辞さず」を藩の方針としていましたから幕府の呼び出しに応じることはありません。

 

幕府が長州の意図を見抜けないまま、いつしか三か月が経過し、季節は夏から秋を迎えようとしていました。

9月になると長州が幕命に従わないことが明らかとなったため、家茂は慶喜や容保らと共に参内し、再征の止む無きに至った事情を奏聞し、ついに同月21日、天皇から勅許を獲得しました。

 

これにより第二次長州征伐が始まります。

勅許が下されたということは、幕府の判断だけで征討を途中でやめるわけにはいかないことを意味します。結果から見れば、幕府はこの征討を始めたことで自ら立場をより不利なものとし、幕府滅亡への途を突き進むことになります。

そうでなくともすでに軍備や諸外国への賠償金支払いなどで幕府財政はかなり疲弊しており、この度の将軍上洛費用も大きな負担となってのしかかっていました。今また薩摩から批判された「大義名分なき征討」につぎ込む戦費は莫大な額となることは誰の目にも明らかでした。

ですがそんな幕府の命取りになりかねないこの征討を本気で止めようとする者は誰もいなかったのです。

 

とはいえこれで幕府としてようやく長州征討の軍を進発させることができると思われた矢先、思いがけないことが起きました。

安堵して大坂城に戻った家茂の眼前の海に英・仏・蘭・米の四カ国公使を乗せた外国軍艦九隻が兵庫沖に姿を現したのです。

 

 

さて本日はここまでとし、この続きは次回お話します。今回も最後までお読みおただき、ありがとうございました。

 

 

 【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

 ・「徳川慶喜公伝3」 渋沢栄一 東洋文庫 平凡社

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

 写真・画像: ウィキペディアより