こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

さて当ブログも今回で150話に至りました

 

2018年1月から投稿してきましたから3年と半年経過したことになります。

投降を始めたのは明治維新からちょうど150年目に当たる年でした(この年の大河ドラマは「西郷どん」。そんなことから当ブログが勝海舟の生涯と幕末維新史について語り終えるには、150回程度になるかもしれないと考えていました。

現在お話をしているのは慶応元年(1865年)ですから、まだ徳川幕府を倒すに至っていません。見込み違いにも程がありますね(笑)

 

さて曲がりなりにもこうして投稿を続けることができているのは、やはり読んでくださる方々のおかげです。それがなければここまで続くことはなかったはずです。改めて感謝いたします。

読み手の皆さんからの反応があればあるほど書き手としてはモチベーションがあがります。

さらに励ましのコメントやメッセージをいただけるのはとても嬉しいものです。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

【 英公使パークスの着任 】

 

さて前回の続きです。

英・仏の全権公使と米の代理公使、蘭の総領事を乗せた九隻の軍艦(英5、仏3、蘭1)が横浜を出航したのは、慶応元年(1865年)9月13日のことでした。三日後の16日、艦隊は兵庫沖に姿を現わします。

では英・仏・蘭・米の代表による今回の行動にはどのような目的と背景があったのでしょうか。今回はそのことについてお話します。

 

この時イギリス公使の職務に就いていたのはパークスでした(同年閏 5月16日に横浜に着任)

 

(第2代駐日公使 ハリー・パークス)

 

パークスは駐日公使となる前、上海領事の地位にあり、すでに20年に及ぶ中国での勤務経験がありました。本国のラッセル外相からオールコックの後任として打診を受けたパークスは、すぐに快諾し駐日公使に昇進しました。「まわりが迷惑するほどの働き者」と言われたパークスは、この時37歳でしたが、その辣腕ぶりはつとに知られていました。ちなみにパークスはイギリス人でありながら、生涯のほとんどを中国と日本で過ごした人物です。

 

 

【 英国政府の対日政策 】

 

9月4日、パークスは就任後初めてラッセル外相から重要な訓令を受けました。そこにはイギリス政府の対日政策上の基本的な認識が示されていました。

 

幕府が諸外国と通商条約を結んだことが契機となり、日本の政治形態に根本的な変化をもたらしたこと。イギリスと幕府や諸藩との関係が深まるにつれ、当初この国の支配者であると考えられた将軍が、実はこの国の君主ではなく、さらにその上位に天皇という精神的存在がいること。

これまでイギリス政府は、日本国内に外国人を忌み嫌い、外国人との交際を反対する勢力がいるため港を速やかに開くことは危険であるという幕府の主張を信じてきたこと。さらに幕府が直面する様々な困難に理解を示し、開港・開市の延期を認めるなどの配慮を行ってきたこと。

 

 

ところが、最近の数々の報告から明らかになったことは、これまでの幕府の言い分や説明には疑わしいものがあり、今や幕府の主張を信用するわけにはいかなくなったと伝えています。

きっかけは、薩英戦争と下関遠征でした。

この軍事行動により街と砲台を焼き払われた薩摩藩や長州藩はその後、自ら英国に友好的な交際を求めてきただけでなく、双方とも藩内の港を開く用意があり、諸外国との交易を望んでいました。

両藩の主張によれば、攘夷は将軍の命によって行ったものであり、また幕府は外国との交易を独占したいため、諸大名が諸外国との交易に参加するのを妨害している、と。

こうした認識から本国政府は、これまで交渉の場で何らかの口実を設けて一向に約束を守ろうとしない幕府に不信を抱くようになり、今後は交易を望む諸藩に接近する必要があると判断していました。

そこで英外務省はこうした認識が現実に即したものかどうかを日本に駐在するパークスの目を通じて確認するよう求めたのです。

 

 

【 パークスに求められた使命 】

 

ラッセル外相はパークスが果たすべき任務として以下の3つを幕府に要求し約束を取り付けるよう命じました。その3つとは、

                 1)条約の勅許の獲得

                 2)兵庫開港の実現

                 3)輸入税率の一律5%の引き下げ

です。

 

訓令を受けたパークスは早速、フランス公使ロッシュとオランダ総領事ポルスブルックに会談を持ち掛けます。そこでパークスは各国による艦隊で兵庫沖に向かう提案を行いました。

四カ国艦隊が姿を現すことで幕府に3つの条件の実施を迫ろうと考えたのです(アメリカ代理公使ポートマンは、後日この提案に同意)

 

 

この会談でパークスは各国と以下の2つのことを議論しました。

まず前年の下関戦争での賠償金支払いの件(第139話)を取り上げ、こんな提案をしています。

  ・幕府に求めた賠償金三百万ドルのうち三分の二を免除するという好条件を示し、その代 

   わりに先の三条件の履行を求める。

そして

  ・兵庫開港の期日を慶応元年11月15日と定め、大坂を開市する約束を取り付ける。

 

一つの懸念がありました。それは対日政策でイギリスとは異なる立場を取るフランスがパークスの提案を受け入れるかどうかでした。

フランスの反対が予想されましたが、意外にもロッシュはこの提案をすんなりと受け入れました。その理由は、前年は下関開港と賠償金支払いのいずれを選択するかが問題でしたが、今回の三条件はフランスにとっても申し分のない共同提案内容であったからです。

こうして四カ国すべてが賠償金の三分の二免除に同意しました。

 

 

次にパークスが取り上げた議題は、四カ国代表が兵庫沖に艦隊を率いて進出することの意義とその行動によってもたらされる効果についてです。

 

この時期、将軍と主要閣僚たちは長州征伐のため大坂に滞在しており、江戸には留守を任された老中一人が残されていました。将軍らは長州問題の対応に苦慮しており、いつ江戸に戻るかもわかりません。ならば四カ国側から朝廷に近い兵庫沖に向かい、大坂城にいる将軍に申し入れ、約束実現のために幕府との交渉を一気に進めるのが良策というもの。事態の成行きによっては京の朝廷に乗り込み、直接交渉する局面が生まれるかもしれない、と考えたのです。

 

 

【 パークスの予想 】

 

またパークスは幕府の現状についてこんな見方をしていました。

長州側の頑強な抵抗に遭い、今幕府は苦しい立場に追い込まれている。このまま長州側が要求を受け入れなければ、幕府としては交渉を打ち切り、軍事行動を起こさなくてはならなくなる。戦闘が始まれば内乱に発展しかねず、それは四カ国が望むことではない。

 

幕府が征長を起こす前に四カ国の代表が艦隊と共に兵庫沖に姿を現わせばどのようになるか。われらの行動はきっと幕府にとって「不慮の事態」の発生として目に映るだろう。そうなれば徳川将軍の面目をつぶすことなく長州との戦争を回避し、行き詰った状況から幕府を救い出すことができるかもしれない。パークスはそんな予想を抱いていたようです。

 

さて四カ国代表と幕府との会談の日時と場所は、9月23日、兵庫沖に停泊中の英艦プリンセス・ロイヤル号と決められました。当日、幕府側代表として同号に赴いたのは老中阿部正外でした。

 

 

本日はここまでとし、この続きは次回お話します。今回もいささか長い話になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

 ・「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄3」 萩原 延壽 朝日文庫

 

 写真・画像: ウィキペディアより