こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

今年の冬はよく雪が降りました。でもようやく春めいてきました。

少し前まで朝ベランダに出る度に寒さに身を震わせていましたが、最近は暖かいと感じる日が増えました。陽が照る時間が長くなり、夕方の空も随分明るくなりました。いよいよ春到来ですね。

 

【 伏見寺田屋で襲撃に遭う龍馬 】

 

前回の続きです。

薩長盟約の成立に漕ぎつけた坂本龍馬が、伏見寺田屋で待つ三吉慎蔵の許に一人で戻ったのは慶応二年(1866年)月23日夜のことです。

この頃、龍馬は幕府から目を付けられるようになっていました。そのため京・大坂に潜入することは自ら危地に飛び込むも同じで氣を緩めることのできない日々に身を置いていました。

永く心に描き続けた薩長両藩の手を結ばせるという大仕事をようやくしてのけた直後だけに龍馬の心にも達成感と安堵する気持ちがあったことでしょう。

龍馬は満面の笑みを浮かべながら三吉に薩長盟約が締結に至った経緯を語りました。祝杯を何度も挙げ、語り尽くせない時間を過ごしていくうちに夜が更けていきました。

 

 

(現在の伏見寺田屋)

 

 

この数日、寺田屋は伏見奉行所の監視下にあり、配下の者たちが探索を続けていました。

この日の夜、龍馬を捕縛するため寺田屋の周辺には捕り手たちが集まってきました。深夜に入り奉行所の手の者たちが息をひそめて寺田屋を取り囲みました。

入浴中だったお龍(後に龍馬の妻となる)が、ただならぬ気配に氣づき、二階に駆け上がり龍馬と三吉に外の様子を知らせます。喜びに酔いしれていた龍馬と三吉でしたが、お龍の言葉に身に危険が及んだことを悟るとすぐさま戦う覚悟を決めました。龍馬は大小の刀を差し、六連発の短銃を手にし、三吉は手槍を引き寄せました。

 

しばらくすると階下から刀を携えた一人の侍が姿を現わし龍馬と三吉に向かい、「不審の儀之あるため訊問を行う」と部屋に押し入ってきました。

「薩摩藩士が宿泊するところに無礼ではないか」と龍馬が叱ると相手は「偽名であろう」と答え、双方の押し問答がしばらく続きました。

その侍は一旦、階段を降りていきました。その間、二人は戦う上で障りとなる部屋のふすまや建具を外し、三吉は龍馬の前で手槍を構え、龍馬は銃砲を部屋の外に向けいつでも撃てるよう備えました。

 

やがて槍を構えた捕吏たちを従えた幕吏がやって来て、「伏見奉行の上意である。慎み居れ」と声高に叫びます。すると「我らは薩摩藩士。上意を受けなくてはならぬ言われなし」と応じた龍馬の短銃が火を噴きました。

捕り方を威嚇した龍馬は槍を手にした三吉と共に残りの弾で応戦します。応戦中、龍馬は敵方の脇差を短銃で受け止めようとして左手の指を斬られ右手も負傷しました。

それでも応戦していると敵の一人に龍馬が放った銃弾が命中し、相手は声も上げずに前のめりに倒れました。これで恐れをなしたのか捕り手たちは物音を激しく打ち鳴らしたりするものの近づこうとはしなくなりました。その間に龍馬は弾倉への弾込めをしようとします。ですが指からの流血で滑り、うまく弾込めができません。あきらめた龍馬は短銃を捨て捕り方がひるんでいる隙に三吉と共に梯子段を降り、裏口から脱出しました。

 

 

【 龍馬、お龍の機転に救われる 】

 

幸いそこには幕吏の姿がなく、二人は一目散に駆け出しました。ですが負傷した龍馬は息が切れ、走ることも覚束なくなりました。龍馬が三吉の肩を借り、二人は裏道を抜け歩いていくうちに堀端近くの材木置場にたどり着きました。積み上げられた材木の上に体を横たえると龍馬はもう動けなくなりました。

いずれこの場所も奉行所の手の者が見つけるにちがいない。逃げ道がなくなったからには切腹する他ないと三吉は死を覚悟しますが、龍馬は三吉に伏見の薩摩藩邸に助けを求めるよう伝えました。

 

この時、龍馬が口にした言葉を三吉は日記にこう書き残しています。

 

「若し途にして敵人に逢わば必死それまでなり。僕もまた此の所にて死せんのみ」

 

龍馬はできることがあるならすべてやってみよ、最後まで望みを捨てるなと言いたかったのでしょう。龍馬の意向を察した三吉は堀に降り、血に染まった着物を洗い、草履を見つけると旅人を装い市中に出ました。明け方近く出会った商人から薩摩藩邸の場所を聞き出し、周囲に目を配りながら同藩邸に駆け込みました。

 

 

先にお龍が自らの判断で薩摩藩邸まで走り、龍馬遭難を急報していたため留守居役の大山彦八はすでに龍馬と三吉の探索と救出するための手配りをしていました。一方、伏見奉行所側では、夜が明ける前から捕吏たちによる必死の探索が続けられていました。

 

三吉の通報で龍馬の居場所を知った大山は迅速かつ適切な対策を講じました。探索に動く奉行所の者たちに自らの行動目的を察知されぬよう船に薩摩藩の印を立て、藩士三人だけを引き連れ材木置場に向かったのです。龍馬を発見すると無事藩邸まで連れ帰りました。藩邸に運び込まれた龍馬の顔色は真っ青で寒さと疲労のため衰弱していましたが、意識はしっかりとしていました。

 

多くの負傷者を出しながら二人を拘束できなかった伏見奉行所は、龍馬らが薩摩藩邸に逃げ込んだとの情報をつかむと大山彦八に身柄の引き渡しを求めました。ですが大山は奉行所の要求を断固として突っぱねました。

余談ですが、この彦八の弟が明治期において初代の陸軍大臣となる大山巌で、日露戦争で大いに活躍する人物です。

 

藩医の治療を受けた龍馬はその後(同年2月1日)、この藩邸から京の薩摩藩邸にお龍と共に移りました。移動に際しては薩摩藩が龍馬とお龍が乗る駕籠を用意し、西郷の命により派遣された吉井幸輔が率いる小隊が警備付きというまさにVIP待遇の扱いを受けました。

奉行所側は怪しいとわかっていても幕府と薩摩との間で争いごとを起こしたくないため手が出すことができません。静観するしかありませんでした。

 

京の薩摩藩邸に入るとお龍は龍馬に付き添い、献身的な看護を行ったようです。お龍の機転を利かせた行動により龍馬の命が救われたことを知る周囲の者のたちから向けられる温かな眼差しの中、二人は夫婦として束の間の穏やかな日々を過ごしました。その後、龍馬は西郷の勧めもあり、お龍を連れて再び鹿児島を訪れました。

 

 

【 木戸の書簡に裏書で返書した龍馬 】

 

盟約成立直後の1月23日付けで長州の木戸が、龍馬宛に非常に長い手紙を書いています。

この書簡の存在が後世の私たちに薩長盟約の内容を教えてくれていることは前々回お伝えしました。

木戸はこの中で、先日の会合で合意に至った内容は六か条にまとめ、龍馬にこれで間違いがないかと確認を求め、誤解していれば遠慮なく訂正してもらいたいと申し出ました。

 

木戸は確証を必要としていました。

 

盟約は確かに成立しました。しかし盟約は口頭による合意であり、いわば口約束のようなものです。一人で会合に参加したため藩内には木戸の証人となる人物もいません。また時が経過し薩長を取り巻く状況が変われば盟約は反故にされてしまうかもしれません。

さらに帰藩後、報告しようにも盟約した書面がなければ木戸の言うことを藩内の誰もが信じてくれない可能性もあります。そのことは同時に木戸の長州藩内での立場を危うくし、今後の発言力と影響力を弱めることにつながりかねません。

 

そう考えれば木戸が龍馬に生き証人としての役割を求めたのは、当然の帰結だったことになります。その想いがよほど強かったのでしょう。木戸は龍馬に六か条への内容確認を求め、裏書してくれるよう繰り返し頼んでいます。

 

手紙を読んだ龍馬は木戸の立場を深く理解していました。返書のために筆を取ったのはまだ傷の痛みが癒えていない頃(2月5日)です。その痛みを感じながら龍馬は裏面に朱書による闊達な筆文字でこう裏書しました。

 

 

(龍馬により裏書された木戸の書簡)

 

 

「表に記された六箇条の盟約は、小松・西郷の両氏および老兄(木戸のこと)、そして私龍馬が同席し議論して決めたもので髪の毛一本の間違いもありません。また後々までも変わることがないのは神明の知る所です。

 

  二月五日            坂本龍 」

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

 ・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書  

 ・「西郷隆盛」 家近良樹 ミネルヴァ書房

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「坂本龍馬からの手紙」 宮川禎一 教育評論社

 ・「坂本龍馬関係文書 第2(三吉慎蔵日記抄)」国立国会図書館デジタルコレクション

 

 写真・画像:

 1)寺田屋・坂本龍馬・伏見桃山・京都府・全国の観光音声ガイドより

 2)宮内庁書陵部所蔵「薩長同盟裏書」 高知県立坂本龍馬記念館HP

      2021.10.08 開館30周年記念のお知らせページから

 

※   寺田屋は幕末史で有名な2つの事件の舞台となりました。当時の寺田屋は伏見鳥羽の戦いで火災に遭い、

   焼失しています。再建された現在の建物は当時の敷地の西隣にあたります(ウィキペディアより)