こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯を手がかりに他人に流されずに生きるヒントを探し続けている、

歴史大好き社労士で、シニア未来サポーターの山路 貞善です。

 

 

では早速前回の続きから始めましょう。

前回は、幕府にとって長年の課題であった兵庫開港問題についてお話をしました。

幕末史も、最終段階に到達しました。今回は、いよいよ「大政奉還」について取り上げます。

 

 

【 大政奉還とは? 】

 

高校時代、学校の歴史の授業で「大政奉還」について学びました。

多くの方にとって、学校で習った歴史は、このようなものではなかったでしょうか。

 

 

薩長の反幕勢力が黒船来航以降、時代の変化に対応できなくなっていた徳川幕府を窮地に追い込み、そのまま大政奉還から江戸無血開城まで一気に幕府倒壊への道を進んでいった。

そのため幕府は潰れるべくして潰れた。

 

高校生の頃の私は、大政奉還とは幕府が自ら敗北を宣言したも同じと考えていました。

 

 

ですが、歴史を丹念に見ていくと、全く別の景色が見えてきました。

そのため「大政奉還」は、私にとって幕末史そのものへの見方や考え方を大きく変えるきっかけとなりました。

 

大政奉還に賭けた慶喜の真意とは何だったのでしょうか?

 

 

そのことを今回と次回の2回に分けてお話します。歴史を学んでいると、時に意外な事実を発見したり、知らなかったことに出会える楽しさがあります。そんなことを少しでもお伝えできればと願っています。

 

 

では早速、始めましょう。

最初に「大政奉還」とは、どういうことを意味するのか。そのことから見ていきましょう。

 

一般的には、徳川幕府が政権を朝廷に返上することと理解されています。ですが、ここで一つの疑問が浮かび上がってきます。

 

そもそも江戸に徳川幕府を開いたとき、朝廷から政権を委任された事実はありません。にもかかわらず、幕府はどうして朝廷に政権を返上しなければならなかったのでしょうか。

 

 

時間を少しさかのぼり、戦国時代に目を向けてみましょう。

戦乱の世を終わらせ、江戸に幕府を開いた徳川家康は、圧倒的な軍事力と経済力を背景に、諸大名の上に立つ地位を築きました。さらに武家の棟梁として君臨するために、朝廷に働きかけ、征夷大将軍としての宣下を受け、天下人であることを世に示しました。

 

 

その後、二百数十年の歳月が流れました。

ペリー来航をきっかけに幕府は、外国への対応を独断で進めることが難しくなり、諸藩などに広く意見を求めるようになります。また、通商条約の締結では、天皇の許しを得ようとしたことで、結果的に朝廷の政治的な存在感が高まっていきました。

 

こうした中、長く徳川幕府の下で、政治に口を出すことが許されなかった諸藩や公卿だけでなく、学者や商人たちもそれぞれに発言するようになりました。

 

このような動きを見れば、有力諸侯の目には、徳川家の他の諸侯に対する優位性はもはや大きく失われたように映ったことでしょう。

となれば、これからのことは幕府だけに任せておけないとなるのは、自然な流れです。

 

 

その場合、2つの可能性が考えられます。

一つは、徳川家と有力諸侯が一致協力する政権を打ち立てること。

もう一つは、徳川将軍と旧幕勢力の影響力を排除し、朝廷の下に新政権を樹立すること。

 

前者は、徳川家だけによる幕府政治を終わらせる代わりに、徳川家も諸侯の一員として有力諸侯と対等の立場で政権をつくろうとする考え方であるのに対し、後者は、新たな国家運営を担当する政権には、徳川家を参加させないとする考え方です。

 

 

幕府は、諸外国との条約を締結するのに、朝廷の権威を利用することで難局を乗り切ろうとしました。一方でこれまでの幕府の権威が低下したことを人々に印象付けました。

 

これまで政治に口を出すことができなかった朝廷の発言力が、しだいに強まっていきました。それに伴い、幕府の支配力にも陰りが見え始めるようになります。

 

こうした時代の流れの中で、やがて幕府は朝廷から政権を委任されているという考え方が生まれ、後に新たな国家づくり案としての大政奉還論が登場してくるのです。

 

 

 

【 大政奉還に至る前後の政情 】

 

この大政奉還を巡って繰り広げられた幕府や諸藩の動きは複雑な経緯を辿ります。

今回だけで語り尽くすことができないため、今回と次回の2回に分けてお伝えします。

 

幕府にとって長年の課題であった兵庫開港問題にケリをつけた徳川慶喜でしたが、これが引き金となり、倒幕派の慶喜への警戒感は一気に頂点に達しました。

 

この頃の慶喜の政治的資質に強い危機感を抱いたのが、後に明治政府の実力者となった岩倉具視と木戸孝允(当時は木戸準一郎、桂小五郎)でした。両者はこんな言葉を残しています。

 

「決して軽視すべからざる一(いち)の勁敵(けいてき、強敵のこと)」(岩倉)

「じつに家康の再生を見るがごとし」(木戸)

 

 

 

兵庫開港を巡る朝議において徳川慶喜が、弁舌を尽くして勅許を得たことに怒りを爆発させたのは、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)と大久保市蔵(利通)でした。

 

そもそも幕府は、3月20日(慶応3年-1867年)までに兵庫開港について意見具申をするよう、薩摩を含む9つの諸藩に命じていました。ところが同月5日、慶喜は独断で開港の勅許を朝廷に対し願い出ました。

 

幕府が諸藩を無視し、単独で勅許を求める行為に出たことは、在京の薩摩藩幹部には許しがたい行為だったのです。

 

薩摩に限らず土佐や長州などの諸藩も自ら外国と貿易することを望んでいましたから、幕府主導で開港が進んでしまうと、貿易の利益を幕府が独り占めしてしまいかねないという不安を諸藩が強く抱いたとしても決して不思議ではありません。

 

 

 

薩摩藩は、幕府と協議しながら進める道が断たれた以上、もはや幕府に対抗する藩が結集し、挙兵して武力討幕を決断するしかないと考えるようになります。

 

ただ在京の藩幹部が、このように考えたからと言って、国元から兵や武器を送り込むのは、容易なことではありません。各藩とも長州征伐による多額の戦費調達により藩財政は疲弊しており、薩摩と言えど厳しい財政事情にあることには変わりがありませんでした。

 

 

 

私たちは、薩長が徳川幕府を倒した歴史を知っているがために、武力討幕を決意した後は、藩を挙げて一本道で徳川幕府を追い詰めていったと考えがちですが、現実はそうではありませんでした。

 

幕末の最終局面においてすら薩摩や長州、土佐といった倒幕派の雄藩といえども、藩内の意見が打倒徳川一色であったわけではないのです。どの藩内においても倒幕派を敵視し、反対する勢力は存在していました。つまり反幕姿勢を打ち出した各藩の内情は複雑で、決して一枚岩ではなかったのです。

 

 

 

【 坂本龍馬の奔走 】

 

ここからは、大政奉還の建白が土佐藩から行われることになった経緯を見ていくことにしましょう。

 

薩長土という言葉をお聞きになったことがあるかと思います。薩長土とは、倒幕勢力の薩摩・長州・土佐の三藩を指しますが、幕府に対する姿勢には温度差がありました。薩長が徳川幕府に全面的に敵対し衝突することを決めていたのに対し、土佐藩は幕府寄りの考えを持っていました。

 

 

その違いが生じた背景は、関ヶ原合戦にまでさかのぼります。

島津家(薩摩)、毛利家(長州)が敗れた西軍側だったのに対し、山内家は東軍側でした。

 

当時、後に藩祖となる山内一豊は掛川城主でしたが、軍議の席で自身の城を家康に差し出すと真っ先に申し出ました。これがきっかけとなり、豊臣と徳川のいずれにつくか、去就に迷っていた諸将が次々と家康方に味方することになります。

戦後、その功により、一豊は土佐一国を与えられた経緯がありました。

 

土佐藩には、藩祖が徳川家から受けた恩義を忘れるわけにはいかない独自の事情があり、薩長とは一線を画す政治的立場に置かれていました。そのため薩摩や長州が武力討幕という方針に舵を切ったからといって、そのまま同調するわけにはいかない事情があったのです。

 

 

さてご承知のように、土佐藩が大政奉還の建白を行うきっかけをもたらしたのは、同じ土佐藩出身で二度の脱藩経験がある 坂本龍馬 でした。

 

 

 

慶応3年1月下旬、龍馬は長崎にいました。

同月下旬から2月にかけての頃、龍馬は、土佐藩の重役に就いていた 後藤象二郎 と清風亭で密かに会合を持ちました。

 

龍馬は後藤とは初対面でしたが、大いに話が弾んだようです。会談後、龍馬は後藤の人物を高く評価しています。

 

 

(後藤象二郎)

 

 

その時の様子について、龍馬は木戸(慶応3年2月14日付け)と三吉慎蔵(同月16日付け)宛の手紙中で、ほぼ同様のことを書いています。

 

「土佐藩の重役どもとひそかに面会し、十分に議論しました。大いに面白い状況になってきました」とし、これまで幕府寄りだった土佐藩上層部の考えにも変化が見られるようになったと記しています。

 

 

 

こうして龍馬は、かつて飛び出した土佐藩の幹部たちと急速に交流を深めていきました。

 

その後、龍馬は土佐藩から脱藩の罪を赦免され、自ら創設した海援隊の隊長を命じられます。

6月9日、龍馬と後藤を乗せた土佐藩船「夕顔」が長崎を出航し、12日、大坂長堀にある土佐藩邸に到着しています。

 

後藤は、前藩主の山内容堂から上京するように求められており、龍馬は後藤に同行することを依頼されていました。

 

 

この頃、京では四侯が集まっていました。兵庫開港と長州処分に関して島津久光(薩摩)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、松平春嶽(越前)の四藩主による会議を薩摩藩の提案により開催することになっていたからです。

 

ところが、前回にもお話したように、慶喜一人が四人を手玉に取り、酒と食事を振る舞い、全員で写真撮影する形で終わらせてしまいました。

 

以後、薩摩藩の在京幹部らは議論を通じて幕府と決着をつけることをあきらめ、幕府に対し強硬路線で臨むしかないという方針を固めました。

 

 

もはや幕府と薩摩の対立は決定的でした。両者の対立の深さは、世の人の口にのぼるほど知られるようになり、幕府要人へのテロの可能性が心配されるほどでした。

 

龍馬と後藤が大坂に到着したのは、世の中がそんな不穏な情勢に包まれていた時期のことであったのです。

 

 

今回はここまでとしましょう。

次回も「大政奉還をめぐる諸藩の動き」の続きをお伝えしますので、楽しみにお待ちください。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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《 2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』新たなキャスト 》

 

新たなキャストが続々と決まっています。

今回、新たに発表があったキャストの皆さんから一部をご紹介します。

 

・吉田松陰(よしだ・しょういん)/ 中村倫也(なかむら・ともや)

・高杉晋作(たかすぎ・しんさく)/ 寛一郎(かんいちろう)

・薩摩藩国父 島津久光(しまづ・ひさみつ)/ 斎藤工(さいとう・たくみ)

・11代薩摩藩主 島津斉彬(しまづ・なりあきら)/ 西岡德馬(にしおか・とくま)

 

ところで、第1弾でご紹介した「滝川具挙(たきがわ ともたか)」は、主人公の小栗忠順(おぐり  ただまさ)以上に知られていない人物です。滝川は、今回取り上げた大政奉還に猛反対した人物で、薩摩藩に対して武力討伐を主張した強硬派です。

 

この滝川を演じるのは、声優としても有名な宮野真守さん。すでに朝ドラ「らんまん」にも出演されていますが、大河ドラマは初出演。最近では『救命病棟24時』にも救命医として出演中の売れっ子の役者さんです。ドラマの後半では、大きな役割を果たす人物として登場される機会があるので今から楽しみです。

 

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読者の皆さんからの「いいね!」はとても嬉しいです。

またどこが印象に残ったか、一言でも聞かせてもらえると嬉しいです。これからも書き進めていく上で、励みとパワーになります。よろしくお願いします。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

 ・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

 ・「坂本龍馬」 松浦玲 岩波新書

 ・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「江戸幕府崩壊」 家近良樹 講談社学術文庫

 ・「遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4 萩原延壽 朝日文庫

 ・「全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙」 宮川禎一 教育評論社

 ・「NHK英雄たちの選択 江戸無血開城の深層」磯田道史+NHK「英雄たちの選択」制作班 NHK出版

 写真:後藤象二郎 出典:Wikimedia Commons ライセンス:パブリックドメイン

 

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