新たな年を迎えました。

皆様、あけましておめでとうございます。昨年も当ブログをお読みいただき、真にありがとうございました。

 

この2年間、コロナ禍の毎日が続き憂鬱な気分で過ごすことが多かった多かったことと思います。ですが、そろそろ終焉が見えてきても良さそうな頃です。感染力の強い新たなウィルスを抑え込むには今少し時間がかかるのかもしれませんが、どんなことにも必ず終わりがあると信じて今日という一日に注力してまいりましょう。

マスクやアルコール消毒は今後も欠かせないでしょうが、今では日常の生活に定着した感があります。新たな日常を受け入れつつ、皆様にとって今年が明るく希望を持って歩まれる日々となることをお祈り申し上げます。

 

 

さて当ブログも今年で5年目に入ります。丸四年を経たというのにいまだに明治維新を迎えておりません。展開が遅いと言われればその通りですと認めるしかありません(笑)。

幕末史は登場人物が多いことに加え、複雑な事情が絡みます。様々な観点から複合的に見ていかないと時代の流れが理解しづらくなります。それを避けるためには三つの視点が必要だと考えています。コンサルの世界では、「虫の目」「鳥の目」「魚の目」と呼ぶ三つの視点(和仁達也「プロの思考整理術」から)があるのですが、歴史を学ぶ上でもこれらの視点は有効です。

 

一つ目は、目の前の史実を虫のように細部まで見るミクロの視点。

二つ目は、鳥が高いところから見下ろすように広い視野から見るマクロの視点。

そして三つ目は、魚のように時代の潮流を読む視点です。これらの三つの視点を踏まえてお話を進めていくことができれば、歴史をわかりやすくお伝えすることができると考えています。

 

 

海舟ブログも四年の歳月を要して、薩長盟約が成立する歴史的な場所までたどり着きました。「薩長同盟」は有名な史実ですから皆さんもよくご存じのことでしょう。

ですが薩長盟約の歴史的意義と性格については最近の歴史研究の成果により、これまでの通説は過去のものとなりつつあります。当ブログも新たな意義と歴史的な解釈を踏まえて書き進めていく予定です。

さて徳川幕府が倒れるまであと二年です。読み進めていただくことでこれまでとは異なる発見や出会いがあるかもしれません。そんな楽しみを見つけながら、お読みいただけたらと思っています。本年もどうぞよろしくおつきあいください。

 

 

【 短期間に終わった西郷の鹿児島滞在 】

 

さて前回の続きです。

鹿児島に帰国した西郷吉之助(鹿児島帰着は慶応元年(1865年)10月4日)は、国父と呼ばれ薩摩藩の事実上の藩主である島津久光に京都の情勢を報告し、上洛を願い出ました。ですが西郷らの出兵要請は実現しませんでした。というのはその頃、四カ国艦隊が兵庫沖に現れ、条約勅許を大坂城にいる将軍に求めるという事態が発生し、京阪地域の情勢は極めて緊迫していたためです(この間の事情は、第151話から第154話をご参照ください)

この時、西郷が国許での滞在期間はわずか10日間でした。同月14日には一緒に戻った小松帯刀と共に鹿児島を発ち、再び上京しています。

 

 

【 長州問題に新たに取り組む幕府 】

 

目を転じて幕府の動きを振り返ってみましょう。

この時期、朝幕間の関係はこれまでにない最悪の状況にありました。朝廷は幕府が独断で兵庫開港を決めたことへの怒りから二老中の罷免を幕府に要求し、大坂城内の幕臣らを憤激させました。一方、将軍家茂が将軍職辞職を朝廷に願い出たことから大きな政治的混乱が生まれました。

こうした錯綜した情勢が続く中、積極的に行動したのが一橋慶喜でした。懸命の説得により家茂に将軍職辞職を撤回させると条約勅許に関する朝議の開催を求めました。回答期限が迫るなか慶喜は強引なやり方で孝明天皇に返答を迫りました。

 

天皇は止む無く承諾を与えましたが、兵庫開港だけは認めませんでした。それでも幕府にとって長年の懸案であった条約勅許問題を解決に導いた意義は極めて大きいものがありました。

孝明天皇の悲願だった攘夷を放棄させ、朝幕共に国の方針が開国に一本にまとまったからです。もはやどんな勢力も幕府に攘夷実行を迫ることはできません。諸外国は交際相手となり、夷狄でなくなりました。長く幕府を苦しませた「夷を攘う」義務は無くなったのです。

 

 

条約勅許問題が解決すると幕府は再び長州問題に取り組みます。先に勅許は降りていたものの将軍辞表と二老中罷免というゴタゴタが続いたため長州再征については仕切り直しを行わねばなりません。

そこで今度は幕府の役人を広島まで出張させ、長州藩の代表を呼び出し、訊問を行うことにしました。京阪地区での諸侯会議開催の気運が高まることを幕府が嫌ったからです。

派遣されたのは、大目付永井尚志(ながい なおゆき)。11月16日に広島に到着した永井は、20日から長州側の宍戸備後助に尋問を始めます

 

 

(昨年の大河ドラマの永井尚志(中村靖日さん))

 

永井の訊問に対する長州の言い分は、藩主父子は謹慎を続けており、第一次征討における伏罪の姿勢に変わりはない。そのため再征を受けるに当たらない、というもの。永井は長州側の主張にあえて反論しませんでした。

戦争回避を図りたい永井は、当初から妥協的な態度で臨んでいました。宍戸から謹慎伏罪しているとの書面を取り付けた永井は12月17日、大坂に戻ります。翌日、大坂城で永井から報告を受けた時の老中板倉勝静(いたくら かつきよ)小笠原長行(おがさわら ながみち)は、年が明けた慶応二年(1866年)1月7日、京に向かいました。一橋慶喜・松平容保と長州問題の協議を行うためです。

 

 

 【 京の木戸から上京を催促される龍馬 】

 

同じ日、長州の木戸孝允(桂小五郎)が、薩摩の黒田清隆と共に大坂に着いています。黒田は西郷に伏見まで出迎えてくれるよう依頼し、西郷の手配で木戸は京都の薩摩藩邸に入りました。前年、坂本龍馬の勧めで西郷に会うことを決めたものの下関で待ちぼうけを食わされた苦い記憶が木戸にはありました。ですがこのたびの木戸の上京は藩命によるもの。西郷に会う以上は、薩長提携の話を前に進め、何らかの成果を持ち帰らねば木戸は藩に戻れない立場にありました。

 

 

この頃、薩長の橋渡し役を務める龍馬は、長州藩内にいました。前回、西郷からの頼まれごとで龍馬が長州を訪れたことをお伝えしましたが、その後龍馬は一度上方に戻っています。

幕府が再び長州問題で新たな動きを始めたため、龍馬は長州藩の反応を見るため再び長州に赴いたのです。11月24日に大坂を発ち、12月3日には下関に姿を現わしました。

下関に着いてみると予期しないトラブルが発生していました。ユニオン号を巡る紛争です。

 

ユニオン号というのは、薩摩藩の名義を借りて長州藩が購入した汽船(薩摩藩は桜島丸、長州藩は乙丑丸(いっちゅうまる)と命名)で、その運航は亀山社中があたるとされていました。ところが運用ルールをめぐって長州藩と亀山社中の間で対立が生じました。龍馬が着いたのは、この問題で双方が主張を繰り返し、こじれた状態にあった時でした。龍馬にすれば予期せぬトラブルに巻き込まれたようなものですが、亀山社中に降りかかった問題だけに捨て置くわけにもいかず解決のため奔走することになります。

 

 

先に木戸が藩命により品川弥次郎と共に京都に向けて三田尻を発ったのは12月27日です。この頃、木戸から下関にいた龍馬に手紙が届きました。「半日でも早く京都に来るように」と上京を催促する手紙でした。木戸は西郷との交渉の場に龍馬が同席することを強く願っていたのです。

 

 

龍馬は12月29日付けで長府藩士の印藤聿(のぼる)に宛てて手紙を書いています。その手紙には、ユニオン号問題が解決する見通しがついたことと木戸から早い上京を求められていることが記されています。また長府藩からも誰か龍馬と一緒に京に向かわせてはどうかと提案したところ、同藩の三吉慎蔵が龍馬に同行することになりました。龍馬と三吉の両者が初めて顔を合わせたのは慶応二年の元旦のことでした。

 

上京を急ぎたい龍馬は正月2日か3日に下関を発つ予定でしたが、上方行きの船の手配がつきません。結局、龍馬が三吉慎蔵、池内蔵太(いけ くらた)、新宮馬之助らの一行が下関を発ったのは1月10日のことでした。

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書  

・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

・「西郷隆盛」 家近良樹 ミネルヴァ書房

・「大政事家 大久保利通」 勝田 政治 角川文庫

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「江戸幕府崩壊」 家近良樹 講談社学術文庫

・「坂本龍馬からの手紙」 宮川禎一 教育評論社

・「プロの思考整理術」 和仁達也 かんき出版

 写真・画像:NHK大河ドラマ「青天を衝け」より