こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 武器を手に入れた長州藩 】

 

前回の続きです。

この頃(慶応元年(1865年)夏)亀山社中(後の海援隊に属していたのは、龍馬が国許の土佐から勝の海軍塾で学ばせようと呼び集めた者たちです。勝の江戸召還により神戸にある勝の海軍塾が閉鎖されると入塾した高松らの土佐藩士たちは国許にも帰れず、居場所を失くしました。土佐藩では前藩主の山内容堂が参政吉田東洋を暗殺した土佐勤王党への弾圧が始まっていたからです。この時、塾生たちに救いの手を差し伸べたのは薩摩藩でした。

 

勝はいずれ自分に対して幕府から何らかの処分が下されることを予想していたのでしょう。海軍塾が閉鎖される前に薩摩に働きかけ、塾生の面倒を見てもらうことを依頼していたようです。薩摩でも勝が江戸への召還命令を受ける前に小松帯刀と西郷が協議し、塾生たちを引き取り、「航海の手先」として使うことを決めていました。

その結果、塾生らは大坂の薩摩藩邸に匿われることになり、幸いにも幕府側の厳しい探索を遁れることができました。

薩摩藩邸に滞在していた彼らは、同年4月に龍馬が乗船した胡蝶丸で共に鹿児島に向かったと考えられます。航海術を身につけていた彼らは、その後、長崎で亀山社中の一員として活動していくことになります。

 

 

さて長州から派遣された伊藤俊輔・井上聞多の両人を高松らは社中で相談して薩摩の重役小松に引き合わせました。伊藤・井上の両名が小銃と艦船購入の件で薩摩藩の名義を借りたいと申し入れすると小松は即座に承諾しました。

その後、両名は高松に案内され、イギリス商人グラバーと会い、薩摩藩名義で七千三百挺の小銃を購入する契約を締結。さらにグラバーから長州との今後の取引については心配無用との言葉をもらい、初交渉を上々の首尾で終えました。こうして長州は征長軍との戦いのため喉から手が出るほどに欲しかった武器を手に入れ、最大の懸念を解消することができたのでした。

 

 

【「非義の勅命」には従わず 】

 

さて一方の雄、薩摩藩の動きをどうであったのでしょう。

幕府が長州再征の勅許を獲得したのは、慶応元年9月21日です。この日の早朝、幕府が求める勅許が認められるという報に接した薩摩の大久保一蔵は、急遽、中川宮邸に駆け付けました。中川宮(朝彦親王)は前日から朝議に参加し、徹夜で議論を終えて自邸に引き上げようやく眠りについたばかりでした。

大久保は、将軍家茂が征討の勅許を求めて参内する前に決定を覆そうと型破りな行動に出ました。中川宮に「一己の存慮(自分一人の考え)を以って言上」したいと強引に会見を求めたのです。

 

眠りを中断され寝ぼけ眼の中川宮に対し大久保は、長州征討を含めた諸問題を「公論」を以って解決するため諸侯をすぐに召集すべきであると主張しました。これに対し宮は、諸侯召集を一会桑(一橋・会津・桑名)は拒んでおり、今からでは大いに時間を要すると反対しました。しかしこの日の大久保は執拗で、宮の懸命の説明にも一向に耳を貸そうとしません。

大久保の主張は熱を帯びていきます。長州再征には大義名分がなく、幕府の「私闘」であるのに朝廷が幕府(とりわけ一会桑)の圧力により許可するのであれば、それは「非義の勅命」というべきもの。そのような勅命に従う諸藩はいないだろうとまで口にしました。

「至当の筋を得、天下万人」がもっともと思えるものが勅命というもの。「非義の勅命は勅命に有らず」と道理が通らぬ勅命には薩藩は従えないと詰め寄ったのです。

 

 

さらに大久保は関白二条斉敬(なりゆき)邸に押しかけ、関白にも同じことを訴えました。大久保の気迫に押された二条はそのため参内が遅くなり、その日将軍家茂らは長い時間待たされることになったと言われています。二条関白をここまで追い込んだ大久保の執念は驚くべきものがあります。ですがこうした必死の働きかけにも関わらず長州再征の勅許は認められ、大久保の努力は実らずに終わりました。薩摩藩以外に反対を表明する藩がなかったことが一因でした。

 

坂本龍馬がこの日のことについて池 内蔵汰(いけ くらた。元土佐勤王党の一員。後に亀山社中に加入)に手紙(慶応元年10月3日付)を送っており、次のように触れています。

一会桑が朝廷に長州追討の勅命を降すよう迫り、薩摩藩が阻止する活動したものの、「諸藩ささゆる者なし。ただ薩独り論を立てたり」。龍馬もまた一会桑の三者を批判したのでした。

 

 

大久保自身はこの日の顛末について9月23日付けの書簡で西郷に書き送っています。長州再征の決定を覆すことができなかった無念さを大久保は、朝廷「今日を限り」という表現で怒りの感情を記しました。ですが、この時の大久保の行動が、後に薩長和解への道を大きく切り開くことになります。

 

 

【物心両面で薩長和解を図る龍馬】

 

幕府に勅許が降ろされたことにより西郷・大久保・吉井(幸輔)の在京薩藩指導者らは、長州再征実現を阻止するために新たな対応を迫られました。彼らは有力諸侯に上洛してもらい、「天下の公論」で決することで長州再征の流れを断ち切ろうと画策しました。そのために三人で手分けして国許にいる島津久光(薩摩)、松平春嶽(越前福井)、伊達宗城(宇和島)に上洛を促すための説得に当たろうと計画したのです。

 

現在放映中の大河ドラマ「青天を衝け」第19回『篤大夫、勘定組頭へ』にこんなシーンがあった(第151話で紹介)のを読者の皆さんは覚えておられるでしょうか。そのシーンでは大久保(石丸幹二)が越前の春嶽(要潤)に会い、こう語り掛けていました。

 

 「越前様、どうか京にお上りを。ほして才知あるもんで異国に堂々と立ち向かえる日本をつくりもんそ」

 

 

(大河ドラマ「青天を衝け」第19回から 松平春嶽と大久保一蔵)

 

 

西郷が久光説得のため京都を発ったのは、同年9月24日のことでした。藩所有の胡蝶丸で西郷は鹿児島に向かいます。この船には、坂本龍馬も乗船していました。龍馬は途中、29日に上関(山口県)で船をおり、三田尻に向かいました。10月3日、同地で長州藩士小田村伊之助(楫取素彦(かとり もとひこ)、第159話に登場)に再会すると山口まで行動を共にしています。

 

この時、龍馬には二つの任務ありました。

一つは西郷からの頼まれごとです。西郷は薩兵が上京した際の兵糧米を馬関(下関)で調達できるよう龍馬に長州藩の要人に掛け合ってもらいたいと要請しました。龍馬は西郷の考えをこう伝えました。

 

薩摩藩は幕府が長州再征の勅許を獲得するのを阻止するため大いに尽力したものの力が及ばなかった。そこで自分(西郷)は急ぎ帰国し、国父島津久光の上洛を促し出兵を請う考えである。兵を引き連れて上方に戻り、兵力をもってこの流れを押し止めたい。だが藩地(薩摩)では米が不足しているためその調達を長州藩にお願いしたい。

薩長の提携を推し進めてきた龍馬は、薩摩兵の兵糧米の確保という西郷の要望を実現するため長州藩要人への説得に当たりました。

 

 

今一つの任務は、先にご紹介した大久保一蔵が「非義の勅命は勅命に有らず」と記した西郷宛書簡の内容と京都の情勢を長州藩に伝えることでした。

書簡の文言は強烈なインパクトを持ちました。これは当時の大久保一蔵の考えを端的に表明したものでしたが、西郷も大久保と考えを共有していたはず。

 

10月4日、鹿児島に帰国した西郷は直ちに藩主父子と藩幹部に京都の情勢と大久保書簡を報告しています。この報告により薩摩藩指導層は現状認識を共有し、これ以降、薩摩藩は徹底した反幕姿勢を取ることになります。また「非義の勅命」であると断じたことは、長州藩を擁護する薩摩藩の立場を明らかにしたことになります。

こうして 龍馬を通じて双方の弱みを補完し合う合意が生まれ、もたらされた情報により薩長の関係改善が図られました。龍馬は薩長盟約の成立を強力に後押しする役割を果たしたことになります

 

先に長州藩は武器と汽船を亀山社中の上杉宗次郎の周旋により購入することができました。今また薩摩が長州再征阻止のための行動に注力し、反幕姿勢を明確に示したことを知りました。薩摩の意図を理解した長州藩が兵糧米に関する西郷の申し入れを直ちに承諾したことは言うまでもありません。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書  

・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

・「西郷隆盛(上)」 井上 清 中公新書     

・「西郷隆盛」 家近良樹 ミネルヴァ書房

・「大久保利通」 毛利 敏彦 中公新書

・「大政事家 大久保利通」 勝田 政治 角川文庫

・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「江戸幕府崩壊」 家近良樹 講談社学術文庫

・「坂本龍馬からの手紙」 宮川禎一 教育評論社

・「大久保利通文書 第1」国立国会図書館デジタルコレクション

・「坂本龍馬関係文書 第1」国立国会図書館デジタルコレクション

 写真・画像: NHK大河ドラマ「青天を衝け」より

 

 

 

《お知らせ 日本営業大学がNHKニュースで紹介されます》

 この度、私が参加するコミュニティである日本営業大学がNHKの全国放送のニュース番組で取り上げられることになりました。

 明日12月13日(月)の夕方16:50より放映の「ニュースシブ5時」という番組に中田学長が出演します。受講したアスリートも登場する予定です。

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