こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 下関に立ち寄らなかった西郷の真意 】

 

前回の続きです。

土佐の中岡慎太郎が、薩摩に帰っていた西郷吉之助に会うために鹿児島入りしたのは慶応元年閏5月6日でした。西郷の上洛を求めて帰藩した薩摩藩士岩下方平(みちひら)に同行し、薩長和解を呼びかけるためでした。

 

中岡の説得に応じた西郷の到来を下関で首を長くして何日も待っていた木戸孝允(桂 小五郎)坂本龍馬でしたが、両者の前に姿を現わしたのは中岡一人でした。西郷と中岡を乗せた船は、慶応元年(1865年)閏5月16日、鹿児島を出帆しています。ですが途中、豊後佐賀関で中岡一人が降ろされ、西郷は下関に立ち寄ることなく大坂に向かいました。船中で懸命の説得に努めた中岡でしたが、西郷はどうしても首を縦に振ろうとはしません。

西郷が来ないと知った木戸の怒りは激しいものがありました。無理もありません。これまで薩摩から受けた長州への仕打ちを思い起こせば木戸としては冷静でいることはできなかったのでしょう。龍馬も中岡も気色ばむ表情で語る木戸の怒りを鎮めることもできず、西郷と薩摩を批判する言葉に耳を傾けるしかありませんでした。

 

 

ではどうして西郷は木戸に会わなかったのでしょうか。

その理由を明らかにする前にこの時期の政局の動きを先に見ていくことにしましょう。

 

この年(慶応元年)の4月、幕府は長州藩に「容易ならざる企て」があるとして将軍が5月16日に長州再征のため進発すると布達しました(第149話)。同じ頃、朝廷側も将軍上洛を求めていました。しかしそれは第一次征討後の長州処分を朝廷と将軍・諸藩とで話し合って決めることを目的としており、再征のためではありません。長州側に敵対する兆候がうかがえなかったため朝廷・有力諸藩からは再征に反対する声が相次ぎました。

京にいる一橋慶喜も会津の松平容保らの一会桑も考えは同様でした。

慶喜が福井の松平春嶽に宛てて書いた手紙でこの頃の朝廷内の声としてこんなことを伝えています。「叛逆の様子も無いのにいきなり征伐とはいかなることか。理解し難し」。

 

一方、第一次長州征討後に西郷が中心となり、三家老の切腹などにより戦を起こさず事態収拾に尽力した薩摩側は当然強く反発しました。

4月に帰国した西郷は大番頭(一代限りの家老)に昇進(5月9日)しています。長州問題を処理した西郷の働きに対する功績が認められたことが大きな理由です。

その頃、薩摩藩は藩を挙げて富国強兵に取り組んでおり、西郷も藩政に関わっていました。そんな時期に冒頭にお伝えした岩下が中岡を連れて帰藩したのです。藩としては西郷に改革の仕事に専念させるため引き留めたいところでした。ですが、幕府の長州再征の動きは急を告げており、将軍進発を知らせる報が届いたからには「容易ならざる大事」と藩は西郷の上洛を決定しました。

 

 

(大河ドラマ「青天を衝け」で西郷吉之助役の博多華丸さん)

 

 

京・大坂での政局が長州再征で揺れていたまさにその時期、時を同じくして西国では薩長両藩の提携話が進行していました。そしてその運動に関わっていたのが龍馬と中岡でした。龍馬は木戸と談判し、薩長が和解するよう説きました。一方、中岡は西郷に上洛の途上、下関に立ち寄り、木戸と会談するよう懸命の説得に当たり、何とか約束を取り付けたのでした。

 

二度目の長州征伐のため江戸を発った将軍家茂が京に到着したのは同年閏5月22日。幕府はすぐに再征の勅許を朝廷に願い出ました。奇しくも西郷が京都に着いたのは、将軍着京の翌23日でした。

長州再征に反対の立場を取る薩摩は、幕府に勅許を降ろさせまいと運動していました。朝廷への工作活動を担当していたのは、大久保一蔵です。大久保から京での活動への協力を求められた西郷は下関に立ち寄ることなく大坂に直行しました。西郷としては中岡の誘いを振り切ってでも急迫した京の情勢に対処する必要があり、今は薩長提携よりそちらを優先すべきと判断しての行動であったのです。

 

 

【 慎重な態度に徹した西郷 】

 

こうした情勢の中、上洛した西郷は大久保らと共に幕府の長州再征を阻止しようと懸命の活動を続けますが、結果的には彼らの考えた通りに事は運びませんでした。同年月21日、幕府に対し長州再征の勅許が降ろされたからです。

 

翌月初めには長年の政治課題であった条約勅許問題でも幕府は勅許を得ることに成功したため薩摩は続けて幕府から手痛い敗北を喫します(第153話)。いずれも一橋慶喜が大きな壁となって立ちはだかりました。こうした経験から薩摩が幕府に対抗するだけの力を持つには長州と提携するしかないと西郷も次第に考えるようになっていきます。

 

 

ですが薩藩を代表して長州藩の大立者である木戸と会う以上、これを単なる両藩の提携話で終わらせていいはずがありません。

双方の提携は、これまで長くこの国に君臨してきた幕府という巨大な政治機構を一気に時代遅れの存在として追いやり、新たな時代をつくるための歴史的な盟約として成立させなければ意味がない

西郷はそう考えていたことでしょう。

そのためには双方の利益を叶えるだけでは不十分。両藩が互いに心から相手を必要と認めるだけの確かな想いを抱き、それを裏付ける合理的な理由と必然的な根拠がなくてはならない。こうしたことが下関に立ち寄る時点ではまだ目に見える形にはなっていないと西郷は考えていたのではないかと思われるのです。

 

大番頭に昇進したこの時期の西郷は、薩藩の体面を重んじなければならぬ立場にありました。それだけに長州との提携を決して失敗に終わらせてはならないという強い使命感を持っていたはずです。であればこそ、この提携は慎重に臨まねばならないものであったのです。

 

 

【 提携への糸口をつかむ龍馬 】

 

さて木戸と西郷を会わせて薩長両藩の提携話を一気に進めようと目論んだ龍馬と中岡でしたが、試みはうまくいかず、両者はもう一度、作戦を練り直す必要に迫られました。といってすぐに名案が浮かんだわけではありません。まずは西郷を追って上京し説得に当たろうと考えました。

 

この時、長州側から一つの要望が出されました。

長州が幕府と戦うためには、諸外国から銃砲などの武器や物資輸送のための蒸気船を入手する必要がありました。もともと安政の五カ国条約では、諸外国が幕府以外の諸藩と武器艦船の売買取引をすることは禁じられていました。ですが実際には幕府の目を盗んで薩摩などの有力諸藩は諸外国から武器や船を買い入れていました。

長州再征に際し幕府は改めて諸外国の公使に対し密貿易禁止の順守を求めたため諸外国も従わざるを得ず、長州藩は武器や艦船の購入ルートを断たれていました。

 

そこでそれらを薩摩名義で購入してもらえないかというのが長州藩の提案でした。このリクエストには薩摩の真意を知りたいという長州側の切実な心情も見え隠れします。薩摩が天下の為、わが藩と手を結ぼうという心が真であれば叶えてくれるだろう。またこの要望に応えてくれるかどうかで薩摩の真意がわかろうというもの。

提案に賛同した龍馬と中岡は、閏5月29日に下関を発ち、京都に向かいました。

 

6月に入り龍馬らは西郷に会うと長州側の要望を伝えました。西郷が快諾したため長州のリクエストは実現に向けて動き出します。

7月、龍馬は薩摩名義で汽船購入ができることになったという知らせを京都から大宰府に戻る予定の楠本文吉(土佐人)を長州への使者に立て途中、下関に立ち寄らせています。これを受けて長州からは伊藤俊輔(後の博文井上聞多(後のが長崎に派遣されることになりました。この時、長崎で周旋に当たったのが龍馬が薩摩藩の支援を得て結成した亀山社中(後の「海援隊」)の高松太郎・上杉宗次郎らの面々です。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書  

 ・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

 ・「西郷隆盛(上)」 井上 清 中公新書     

 ・「西郷隆盛」 家近良樹 ミネルヴァ書房

 ・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書

 ・「大久保利通」 毛利 敏彦 中公新書

 ・「大政事家 大久保利通」 勝田 政治 角川文庫

 ・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「坂本龍馬関係文書 第1」国立国会図書館デジタルコレクション

  写真・画像: NHK大河ドラマ「青天を衝け」より