こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

当ブログでは最近、二人の大久保が盛んに登場します。同姓の人物が同じ時期に活躍するため判別が紛らわしくなることがあります。そこで無用の混乱を避けるため、今後はこのような表記といたします。すなわち大久保一翁(幕府)「一翁」大久保一蔵(後の利通)(薩摩)「大久保」とそれぞれ呼ぶことにします。ご承知おき願います。

 

 

【 勝・一翁の起用を阻む存在

 

さて前回の続きから。

中根雪江は、薩摩の小松帯刀に会った同じ日(慶応二年2月1日)、一橋慶喜に再び会っています。中根は小松との会談内容を伝えると改めて慶喜に二つのことを懇願しています。

すでに隠居の身にあった大久保一翁を大坂まで召し出したからにはこの機会をふいにすることなく一翁の意見(天下の人材を挙げて大公議会を設け…、公論を以て国是を定むべしというもの)に耳を傾けること、そして勝安房守を速やかに登用すること、です。

 

これに対し慶喜は、両人の登用については「なお勘考すべし」と慎重な態度に終始しました。この時の慶喜には、一翁・勝の両名を起用する考えなど全くありませんでした。というのは、慶喜は長州の処置を幕府独自の判断により決すべきものと考えており、「天下の公論」に図ろうとする松平春嶽や一翁・勝の考えを受け入れるわけにはいかなかったからです。

 

同じ頃、春嶽は一翁への書簡の中で長州の処置について仲介人を入れる提案を行っています。その任を果たす一人として「勝安房抔は如何哉」と勝の名を挙げ、勝の起用を働きかけるよう一翁に催促しました。

催促された一翁は春嶽への返信の中で、大坂入りして以来、幕閣からの諮問に答え、意見具申をしたものの「何分行き届かずもはや閉口つかまつるほかこれなく」と事がうまく運ばないことに苛立ちを感じていました。

さらに「大小監察らはややもすれば御威光論より上には出でず候」と永井尚志(なおゆき)を除き、周囲は幕府の威光にこだわる俗吏ばかりだと嘆いています。

 

それでも一翁は勝の登用の機会をうかがおうとしますが、老中らの勝に対する嫌疑は増すばかりで、「殊に勝などはご存知の英気故」、このような状況が続くのであれば勝はとても辛抱できないだろうと見ていました。そのため自分からは何も申し出さずにただひかえていると伝えています。薩摩とのつながりが深い勝は、猜疑心が深い老中たちから幕府のためにならない存在と考えられていたのでしょう。

 

幕府以外の各方面から強く登用を期待されていた両名ですが、現実を見れば一翁は隠居の身の上にあり、また勝は寄合という無役の閑職に追いやられたまま。ともに職務を解かれてからすでに一年を超える月日が流れていました。

再び活躍の場が与えられるのか、それともこのまま埋もれてしまうのか。先の見えない鬱々とした思いを胸に秘め、日々を過ごすしかありませんでした。ですがそれは雌伏の日々でもあったのです。

 

 

【 大久保一蔵の活躍 】

 

さてここまで慶応二年(1866年)1月から2月にかけて幕府側の動きを観てきました。この辺りで目を転じて幕府の抵抗勢力側の動きを見ていくことにしましょう。

 

京・大坂に常駐する幕府首脳の間で長州の処置に関し意見が対立し、方針が決まらない日々が続いていました。その間に西国では対立関係にあった2つの政治勢力が同じ目的のために手を結ぼうとする動きが生まれていました。  

 

長州藩では、第一次征討により幕府に降伏し恭順することを決めた勢力が一旦は政権を握りますが、程なく高杉晋作が中心となり奇兵隊他の諸隊が民衆を巻き込み蜂起します。たちまち藩内に火が拡がると各地で抗争が起き、藩権力を瞬く間に奪い返しました。

かつて観念的な尊攘論で藩を暴走させ、その存亡さえ危ぶまれた長州藩でしたが、激しい抗争を経て今やしたたかな政治力を備えた集団に生まれ変わっていました。

 

これ以降、長州藩は「割拠」で態勢を固めた藩づくりに専念し、藩論を「武備恭順」に転換し、幕府と戦う決意を固めます。

藩内においては軍制改革を行い、幕府との対決に備える一方、その態勢が整うまでの間、藩外に対し恭順を装うことを方針としたのです。

ですが長州藩は幕府の統制により戦争のための武器を外国から調達できません。長州はパートナーを必要としていました。

 

 

もう一方の雄、薩摩藩の動きはどうだったのでしょう。

幕府は長州再征のため将軍自ら進発し、将軍家茂が朝廷に参内し征討を願い出ました(慶応元年閏5月)。ですが朝廷が幕府にすぐに勅許を降ろすことはありませんでした。再征反対を唱える薩摩が、幕府に勅許を降ろさないよう朝廷に働きかけていたからです。この時、勅許阻止に向けての工作活動に注力していたのは、薩摩の大久保一蔵です。

 

 

(「青天を衝け」で大久保一蔵を演じる石丸幹二さん)

 

 

では大久保はどのような考えに基づき、行動していたのでしょうか。大久保はこう考えていました。すなわち、

大義名分なき再征は幕府の「私闘」に過ぎず、天下の諸藩は再征に反対している。徒に征討を行えば国内に動乱を呼び起こすかもしれず、莫大な軍事費の浪費となる。「名」に背き「義」にもとり「天」と「人事」に背いて勝利した例は古今東西に亘り耳にしたことがない。

大久保は、幕府の長州征討が必ず失敗に終わるだろうと自らの考えに確信を持っていました。

また「具眼の諸藩」(肥前・越前・土佐・宇和島等)は富国強兵につとめていることから、諸藩の反対を押し切って長州征討を行えば幕府の統制力は急速に低下し、諸藩「割拠の勢い」は疑いない情勢となろう。薩摩も「富国強兵」に努め、国力を充満させ、「たとえ一藩を以てすとも」朝廷を護り、皇威を海外に輝かせる「大策」に着眼しなければならない、と主張しています。

 

こうした主張から伝わってくるのは、大久保一蔵の確固とした決意と覚悟です。残念ながら、同じ時代を生きる幕府側の為政者たちは幕府の威光を傷つけまいとすることに汲々とするばかりで、薩長側の指導者に比肩しうるだけの人材はもはや払底(ふってい)していたと言わねばなりません。

 

 

【 幕府を見限り始めた薩摩 】

 

さてこれまでは大久保の努力が功を奏し、朝廷から再征の許しが降りませんでしたが、9月に入ると情勢が変化します。

幕府は長州が幕命に従わないことを理由として再度、朝廷に勅許を願い出たのです。大久保は朝廷内の実力者で幕府側の公卿である関白二条斉敬(なりゆき)と朝彦親王(中川宮)に説得を試みますが、朝廷は幕府の圧力に屈し、言い分を認めてしまいます。一橋慶喜が、「一匹夫の言」を聞き、軽々しく朝議を動かさるる如きは、天下の至変と言うべし」と主張し、巻き返しを図ったためです。慶喜は「一匹夫(大久保一蔵のこと)」の意見など退けよと強硬に主張したのです。

このことを知った大久保は、激しく怒り「非義の勅命であるとし、筋の通らぬ勅命は「勅命にあらず候」と認めるわけにはいかないと憤激しました。ついには朝彦親王に向かい「朝廷是かぎり」と言い放ったのでした。

 

 

翌10月、幕府はもう一つの重大な勅許を願い出ます。

以前に取り上げた条約勅許・兵庫開港問題です(第151話~第154話)。この問題でも幕府と薩摩の意見は真っ向から対立しました。

ですがまたも慶喜が得意の弁舌を駆使し、巧妙な脅しで朝廷に圧力をかけ勅許を勝ち取りました。

征長問題でも条約勅許問題でも大久保は、慶喜一人に阻まれ、苦杯をなめさせられました。立て続けに政治的敗北を喫した薩摩は以後、慶喜に対し極めて強い警戒感を抱くことになります。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

 ・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書     

 ・「大久保利通」 毛利 敏彦 中公新書

 ・「大政事家 大久保利通」 勝田 政治 角川文庫

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「続再夢紀事 第五」国立国会図書館デジタルコレクション

  写真・画像: NHK大河ドラマ「青天を衝け」より