こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 日本はいつ開国したのか 】

 

前回の続きです。

最初にお断りしておきたいことがあります。

現在、お話をしている時期は慶応元年(1865年)月から10月にかけてです。この時期は、幕末史にとって極めて重要な時期にあたります。というのはこの間は朝廷・幕府・諸大名の間で開国をめぐるせめぎ合いが続き、しかも幕府内でも激しい対立があったからです。

 

黒船来航以来、海外との関係が発生した結果、尊王攘夷思想が急速に広まり、外国人を排斥する運動に発展、国内に大きな混乱と激しい対立を生み出しました。

幕府がこの国を代表する政府として諸外国と条約を締結したからには、国外との約束を果たさねばなりません。ですが、幕府が朝廷の勅許を得られないまま数年が過ぎ、今や諸外国は幕府への不信が増すばかりでした。

 

今回と次回(あるいは次々回)は、日本の国策が朝廷・幕府・諸藩の間で開国に決まるまでのプロセスのお話です。この国の方針がいつ、どんな風にして開国にまとまったか、その経緯を知ることは、幕末史を本当の意味で理解するためには避けて通れません。

話の合間にこれまでに放映された大河ドラマ「青天を衝け」のシーンも差しはさみながら話を進めようと思います。その方がよくおわかりいただけるはずでしょうから。

 

 

【 パークスとの会談に臨む老中阿部正外 】

 

さて前回では、四カ国代表が九隻の艦隊を率いて兵庫沖に現れるに至った経緯についてお話しました。四カ国の目的は、条約勅許を獲得し兵庫港を開くことにありました。ここで条約勅許とは、幕府が安政五年(1858年)に諸外国と結んだ「日〇修好通商条約(〇は相手国)」に天皇が許可を与えることです。

 

 

慶応元年9月23日、英艦プリンセス・ロイヤル号での会談には、幕府側から老中阿部正外、外国奉行山口直毅、大阪町奉行井上義斐が、また四カ国側からパークス(英公使)、ポルスブルック(蘭総領事)、ポートマン(米代理公使)が臨みました。その後、幕府寄りの立場を取るフランス公使ロッシュが他の三国とは別に仏艦ゲリエール号で会談を行っています。

 

阿部は、パークスから幕府が条約上の義務を履行せず、勅許が得ることが困難な理由について説明を求められました。

国内には今も外国との交際に反対する勢力があり、長州もその一つと阿部は回答しました。

それに対しパークスは、長州をはじめ諸大名が外国人に敵対的な行動を取っていたのは過去のことで、今や彼らは友好的な態度を示していると反論しました。

 

 

(老中 阿部正外)

 

 

中国で辣腕を振るったパークスは阿部を追求する手をゆるめません。

幕府が条約を締結した当事者としての資格と権力を有していることを主張したいのなら国内の強い反対勢力への説得を通じ理解させ、あるいはそういう勢力を鎮圧しなくてはならない。

また幕府は京の天皇の許しが得られない事情を並べ立ててこの数年、開港を延期してきた。諸外国からするとこうした現状に幕府はもはや一国を代表する政府かどうかさえ疑わしいと言わねばならない、と不信の念を表明しました。

 

やがてパークスは、三条件(条約の勅許の獲得、兵庫開港の実現、輸入税率の引き下げ)を提示し、これを受け入れるなら賠償金の三分の二を免除が与えられると告げました。そしてわれわれは日本との関係が改善することを願っている。だがそれは幕府から多額の賠償金を取り立てることで達成されるのではなく、貿易による経済取引が開始されることによって達成されると伝えました。

防戦一方の阿部でしたが、三条件の受け入れについては頑なに拒否しました。それどころか逆に賠償金が巨額になろうとその方を選ぶであろうと、この提案に応じる考えが全くないことを明言しました。

 

 

パークスが質問を変え、いつ兵庫の開港と大坂の開市を行うつもりかと尋ねたところ、阿部は「長州問題や海軍の建設などの諸問題が解決してから」と回答しました。

とはいえ慶応三年12月には兵庫などの港を開かなくてはなりません。というのは、三年前の文久二年(1862年)月、幕府はロンドン覚書(第90話、第137話)に調印していたからです。

当時イギリスは幕府の苦境に理解を示し、開港・開市延期に五年の猶予を与えていたのです。その期限は二年後の慶応三年12月7日(1868年1月1日)に迫っていました。阿部はそのことを承知していたのです。

 

 

パークスは阿部の説得に努めました。兵庫開港と大坂開市を速やかに行えば諸外国との関係が改善され、二百万ドルが免除される。その代わりこの提案を拒否すれば、こうしたメリットを享受できないまま開港を迫られることになると強調し再考を促しました。

阿部はパークスが今回の交渉において一歩も引くつもりがないことを強く感じ、提案を検討するため翌24日までの散会を求めました。こうしてこの日の会談は終了しました。

 

ところが同日、阿部は交渉の場に向かわず、使者を送り会談を26日まで延期すると申し出ました。

24・25日の二日間、大坂城内では将軍家茂(23日、京から戻る)と在阪する幕府幹部による評議が開かれました。

前日交渉に臨んだ阿部は、パークスらは兵庫開港の速やかな許可を求めており、それを得られないならば幕府を交渉相手とは考えず、京の朝廷に直接交渉するつもりだと説明しました。

阿部と老中松前崇広は、もはや朝廷に勅許を求める暇はなく幕府だけで兵庫開港を決定するしかないと断じました。

 

これに激しく反発したのが松平容保と同定敬兄弟です。幕府だけの判断で開港するなら京都守護職と所司代の職を辞すとまで告げ、阿部らの主張に頑として応じない姿勢を貫きました。

一方、阿部らは外国嫌いの孝明天皇から開港の承認を得ることは困難との観測から幕府単独で決定するのは止むを得ないと応酬します。

結局、この日の評議は阿部の強い主張に議論が傾き、幕府専断で兵庫を開港するしかないとの結論に達しました。

 

 

【 雄藩連合を画策する薩摩藩 】

 

幕府がこうした苦境にいる中、兵庫開港と条約勅許を幕府の手で行わせることに反対する動きを見せたのが、西郷吉之助大久保一蔵吉井幸輔ら在京の薩摩藩士でした。

彼らは、この外交問題を幕府だけで処理するのでなく「天下の公論」で決すべき問題として扱い、大名会議の場に移すための画策を行おうとしていました。

これはちょうど一年前、勝が西郷に伝えた雄藩連合構想を実現しようとする考えと同様のものです。

同月24日、三人が協議した結果、それぞれが国許にいる久光・春嶽・宗城に上京を促すためにそれぞれが鹿児島、福井、宇和島に向かうことになりました。

 

 

大河ドラマ「青天を衝け」第19回『篤大夫、勘定組頭へ』では、石丸幹二さん扮する大久保一蔵が越前福井に赴き、要潤さん演じる松平春嶽に上京を促すこんなシーンがありました。

 

 

  大久保:「幕府はもはや追い詰められ、地に狂うたとか思えもはん。フランスと組んで長州を潰し、その後はわが

        薩摩をも潰す気に違いありもはん。老中なども大名も潰し、徳川が直に国を治めると堂々と論じている

        とのこと」

  春 嶽:「しかし将軍が日の本一家の主となり全国の力を集中させるというのは、元をただせば(橋本)左内の

        考えだ」

  大久保:「幕府にもはや左内殿の夢を叶える者はござらん。

        わが国父(久光)様や薩摩の殿はそろそろ幕府を見限るべきか、と考えちょります」

  春 嶽:「幕府を見限る?」

  大久保:「越前様、どうか京にお上りを。そして才智ある者で異国に堂々と立ち向かえる日本をつくりもんそ。」

  春 嶽:「……」(考え込む春嶽)

 

 

幕府専断で兵庫の港を開くと決めた日の翌日(26日)早朝、禁裏守衛総督の一橋慶喜が京から大坂城に到着します。

幕議の決定を知った慶喜は断固としてこの決定に反対するのですが、このお話は次回することにいたします。

今回も長い話になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

さて今夜の「青天を衝け」はいよいよ草彅慶喜が政権返上する「大政奉還」。ますます目が離せなくなりますね。

 

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

 ・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

 ・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

 ・「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄3」 萩原 延壽 朝日文庫

 ・「徳川慶喜公伝3」 渋沢栄一 東洋文庫 平凡社

 ・「勝海舟全集19 開国起源Ⅴ」 講談社

 

 写真・画像: ウィキペディアより