こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 外交家として名を高めた西郷 】

 

前回の続きです。

第一次長州征伐の終結処理を巡って西郷の声望が高まった理由は他にもありました。

兵の動員を命じられた諸藩はどの藩も財政事情が厳しい中、征討軍として出兵を余儀なくされました。渋々従ったものの戦になれば多大な戦費負担を強いられかねなかった諸藩は征長戦が回避されたことで大いに胸を撫で下ろしたはずです。

こうして西郷は、単身で敵地に飛び込む胆力を備え、周到な情報収集と卓越した情勢分析で難しい交渉をまとめ上げた外交家として一躍注目を浴びる存在となりました。

 

徳川慶勝と西郷は、先に四国艦隊の砲撃を浴び、今また追い詰められている長州藩をさらに追い込めば、長州側の態度はますます頑なものとなり、戦争を長引かせるだけだと見ていました。国内で内乱が起き、長く続けばこの国の危機はさらに深まる。そうした事態に陥るのを回避するためには、何としても早期の解決を図らねばならないと考えていたのです。

 

年が明けると(元治二年=慶応元年、1865年)征長総督の慶勝は、広島を引き払い、征長軍は撤退しました。幕府に相談せず慶勝独断による決定でしたが、それは、慶勝が征長総督を引き受ける際に全権委任を就任の条件としていたからです。

 

 

予想されていたことですが、総督府による処分は寛大過ぎるとの批判が幕府や諸藩、一部の公卿からもありました。その中でもとりわけ慶勝と西郷の決定に大いに不満を表明した人物がいます。一橋慶喜です。

慶喜は、肥後の長岡護美(もりよし)宛の手紙でこう書いています。

 

「征長総督(慶勝)の英気は至って薄く、芋に酔ったのは酒よりも甚だしいとの説があり、その芋の銘は大島(西郷のこと)とか申すそうだ

禁門の変で長州軍を撃退した慶喜としては、憤懣やるかたなしの思いから皮肉たっぷりに批判してみせたのでしょう。

 

 

【 天狗党に苦慮する慶喜 】

 

さてこの頃の慶喜は、他人の批判をしてばかりいられるほど気楽な立場にあったわけではありませんでした。慶喜を悩ませる事態が発生していたからです。

禁門の変が起きる四か月前の元治元年3月、常州筑波山で水戸の尊攘派(天狗党)が挙兵しました(第135話)。挙兵の中心となったのは、藤田小四郎(東湖の四男)で、その主張は徳川斉昭の遺志を継ぎ、攘夷の決行を唱え、横浜鎖港の即時実施を求めるというものでした。ところがやがて軍資金を調達のために強奪、放火、殺戮を行うようになり、暴徒化したため北関東の治安は極度に悪化しました。そのため幕府と水戸藩は天狗党鎮圧に乗り出します。

 

幕府による追討軍が差し向けられると天狗党は次第に追い詰められていきます。この時、この一党を率いていたのは水戸の武田耕雲斎でした。11月になると、天狗党は、京を目指して西上を開始しました。彼らは同じ水戸出身の一橋慶喜を頼り、自分たちの主張を伝えようとしたのです。

 

(敦賀市にある武田耕雲斎像)

 

 

しかし頼られる慶喜にとって天狗党は迷惑この上ない存在でした。というのは、そうでなくても慶喜は、江戸の幕閣からは疎まれており、さらに今回の挙兵派とつながりがあるのではないかと疑いの目を向けられていたからです。どう対処するか、それにより自身の立場を危うくしかねない状況でした。

中山道を通り京に向かうとの情報を得ると慶喜は、天狗党を賊徒として追討することを決意し、朝廷に願い出ます。同年12月3日、勅許を得た慶喜は在京の幕府兵と諸藩兵を率いて近江に出陣しました。

頼みの綱の慶喜が自分たちの行く手に討伐軍として布陣していることを知った時の耕雲斎ら一行の衝撃はいかばかりであったでしょう。

一行は中山道から冬の越前路の険しい道を進み、木の芽峠(福井県)を超えたところで京都入りをあきらめ、加賀藩に投降します。

 

 

戦わずに済んだ慶喜は、彼らに救いの手を差し伸べることなく帰京しました。

投降してしばらくの間、彼らは加賀藩からそれなりの待遇を受けていましたが、その後、関東から天狗党追討のため追ってきた幕府軍が敦賀に到着すると様相は一変します。軍勢を率いていたのは若年寄田沼意尊(おきたか、田沼意次は意尊の曾祖父です

田沼の処置は、過酷極まりないものでした。引き渡されたおよそ八百人は厳寒の季節に暗い鰊(にしん)蔵に押し込められ、十分な衣食も与えられないまま劣悪な環境に置かれました。

翌年(元治二年)2月、意尊は武田耕雲斎を含む三百五十人余を斬首するという処分を下します。この大量処刑のために近隣藩から斬り手となる武士が集められました。命に従うことを拒否した藩がある一方で斬り手を志願した藩がありました。5年前、水戸浪士に襲撃され主君を喪った彦根藩でした。

 

 

幕末、水戸藩は陰惨な藩内抗争を繰り返し、報復の連鎖により血塗られた歴史を刻みました。幕末史の初期においてこそ尊王攘夷を掲げ華々しく時代の主役に躍り出た水戸藩でしたが、藩内の対立する勢力による双方の報復行為が明治になるまで続き、多くの藩士が命を落としただけでなく、その家族も犠牲となりました。そのため水戸藩出身者が明治政府で重要な地位に就き、力を振るうことはありませんでした。

 

 

【 江戸の幕閣VS一会桑勢力 】

 

水戸天狗党の討伐に向かうパフォーマンスまでして見せた慶喜でしたが、それでもなお江戸の幕閣たちの慶喜への不信感が消えることはありませんでした。

当時、江戸の幕閣と京都の一会桑(いっかいそう)力とは対立関係にありました。一会桑というのは、一橋、会津・桑名藩の頭文字による呼び名ですが、一橋慶喜と松平容保(かたもり、京都守護職)・松平定敬(さだあき、京都所司代)の三者のことを指します。

江戸にあって幕府の地位をかつてのように高めることにしか関心がない保守派の老中たちには、天皇から厚い信任を得ている一会桑勢力が邪魔な存在でしかなかったのです。

 

保守派の老中らは、幕威強化のための策を次々と手を打っていきました。前年秋の参勤交代の復活に始まり、この年2月には井伊直弼以来、不在となっていた大老職に酒井忠績(ただしげ)を就任(幕府最後の大老)させています。さらに慶喜を京都から江戸に戻し、容保の守護職解任を画策していました。

 

元治二年(慶応元年)2月、幕府は老中阿部正外と同松平宗秀を幕兵と共に上洛させました。

一会桑勢力を京都から一掃し、京都を幕府の直接支配下に置くことを目論んだからでした。

ですが、この軍事行動はあっけなく失敗に終わります。

両老中は慶喜に面会し東帰するよう求めますが、逆に慶喜から要求を厳しく斥けられました。また参内した朝廷では関白二条斉敬(なりゆき)から、「将軍上洛の命にも従わず、大兵を率いて上京するとは何事か」と叱責されてしまいます。さらに「慶喜が禁裏守衛総督と摂海防御指揮の任にあるにもかかわらず、かかる要求をするとは不届きの至り」と咎められる始末。

こうして幕府保守派による京都での一会桑勢力の京都での牙城を崩そうとする企ては失敗に終わりました。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

※なお本日のブログは明日放映予定の大河ドラマ「青天を衝け」第18回「一橋の懐」で描

 かれる内容に符合しますので、お読みいただけると背景や流れを理解し一層お楽しみいた

 だけると思います。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書

・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

・「西郷隆盛と勝海舟」 安藤 優一郎 洋泉社

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「素顔の西郷隆盛」 磯田道史 新潮新書

・「龍馬を超えた男 小松帯刀」 原口 泉 グラフ社

・「徳川慶喜公伝 3」 渋沢栄一 東洋文庫 平凡社

・「昔夢会筆記」 渋沢栄一編 東洋文庫 平凡社 電子書籍

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

 写真・画像: ウィキペディアより