こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

お久しぶりです。

前週まで日本営業大学での講義と準備があり、「海舟ブログ」の投稿を休ませていただきました。どうかご容赦ください。

さて大河ドラマが、『麒麟が来る』から『青天を衝く』に変わりました。描かれる時代が戦国から幕末維新に移りました。今回の主役は、渋沢栄一という農民出身で幕臣となり、明治政府に仕えた後、実業家に転じ、天寿を全うし昭和の初めまで生きた人物です。

私は随分以前になりますが、城山三郎さんが渋沢栄一を描かれた小説「雄気堂々」を読んだことがあります。

 

この「海舟ブログ」も渋沢栄一とのつながりがあります。

というのは、勝の生涯に関わりが深い慶喜を知る上で、「徳川慶喜公伝」はとても重要な史料の一つで、この著作は渋沢栄一によるものです。私も当ブログを書く上で慶喜については知る必要があり、そのためにこの公伝と「昔夢会筆記」には、お世話になる機会が多いのです。その意味で私も渋沢栄一が残してくれた労作と功績の恩恵を蒙ることができている一人ということになります。

 

『青天を衝く』は今のところ、幕末ホームドラマといった印象が強く、毎週楽しみながら視聴しています。2008年に放映された『篤姫』もやはり後に天璋院となるお一(かつ)の家族のことが描かれ、好評を博しました。今年の大河にもその頃と似たような感覚があります。

 

さて今年の大河が幕末を取り上げてくれたせいでしょうか、以前にアップした当ブログへの訪問も最近は増えており、嬉しく思っています。こうしたことをきっかけとなって歴史に興味を持つ方が一人でも増えてくれればと願っています。

 

 

【 勝・西郷会談その3 】

 

さて前回の続きです。

勝が語った考え(賢明諸侯四、五人が会盟、つまり雄藩が連携して諸外国と談判する方針)を西郷は国許の大久保一蔵に、「共和政治」という表現を用いて手紙で伝えています。

西郷が言う「共和政治」は、今日の私たちがこの言葉から連想するイメージとは少し違うものです。ここでは有力諸藩の藩主による雄藩連合政権のことであり、今後はこうした政治体制を打ち立てることが自分たちの使命であると伝えたのです。

 

手紙には、

「一度この策を採用したならば、いつまでも『共和政治』をやり通さなくては相済まなくなる。そのことをよくよくお考えください。もしこの策を以ってしても政治改革が断行できないなら、その時薩藩は断然、割拠の色を顕し、国を富ます策に出なくては相済まなくなるものと考えております」

とあります。

 

西郷は、勝が示した考えに触発され、今後はその方向でどこまでも突き進まねならないと強い決意を表明しました。だがそれでも幕府がこうした方針に応じず、逆に封じる動きに出るなら、それに対抗するために薩摩としては富国強兵策を執り、幕府を倒す他なしとする割拠論を唱えたのです。

 

西郷は、これまでの活動と苦闘の日々の中で幾度も思考を積み重ねてきましたが、いまだにつかみきれない何かがあるという歯がゆさを感じていました。

それだけに西郷にとって勝海舟という媒体を通して明確なビジョンを描くことができた意義はとても大きなものでした。信念を持ってこの国の未来づくりの仕事ができると確信したのでしょう。西郷の勝への最大級の賛辞は、その喜びを爆発させた証でもあるのです。

 

 

(大久保一蔵、後の利通)

 

この会談に同席した薩摩の吉井幸輔も大久保一蔵に手紙を送っています。それによると「共和政治」の制度について色々な事柄が勝の口から語られたことがうかがえます。

手紙には、

「大久保越州(この大久保は幕府側の人物で大久保忠寛のこと。この頃は隠居して「一翁」と称していた)、横井(小楠)、勝などの議論、長を征し幕吏罪をならし、天下の人材を挙げて公議会を設け、…(中略)…公論を以て国是を定むべしとの議に候由」という記述が見られます。

 

大久保一翁は、文久年間、最初に大政奉還論を唱えた人物ですが、一翁にはすでにイギリスの議会政治制度に関する知識がありました。一翁は幕臣にもかかわらず、これからは幕府支配による政治から議会政治に変えていかなければならないという極めて先進的な考えを持っていました。もっとも幕府の存在を前提にしなければものが考えられない当時の幕吏には理解されるはずのない議論でした。

 

公議会は、大公議会と小公議会の二種があり、大公議会は全国に関する案件を議し、小公議会は一地方にとどまる案件を議するところ(続再夢紀事五)です。

一翁と小楠、そして勝は政治思想を共有し、日本の未来図に関する共通した考えを持っていました。それは、幕府が「私」を捨て三河以来の一大名に戻ることも厭わぬ決心し、他の雄藩大名と議論を交わしながら国是を定め、国内一致の態勢をつくり上げるというものでした。衆議を尽くして国の方針を決定する場所こそが公議会と呼ばれるべきもの。三者はこうした議論を文久年間から繰り返し行ってきました。

 

 

この政治思想が、勝の口から西郷、吉井に伝えられ、今またこの両者の書簡により大久保一蔵(後の利通)に伝わったのでした。またこの議論を深く知るグループの一人に坂本龍馬がいることを忘れてはなりません。

こうして国論を決定するための態勢づくりに関する共通認識が、幕府内の一翁・勝と薩摩藩・越前福井藩の間でできあがりつつあったのです。そしてこのラインにいるメンバー全員が、後に対立する政治的状況に身を置きながらも幕末の最終局面で国家の危機を回避するための事態収拾に当たる仕事をしていくことになります

 

こうしたことから、幕末史において勝・西郷会談が持つ意義がいかに歴史的に大きなものであったかを知ることができるのです。

ですが、時代は勝や一翁らが願っていたような動きで一直線に進むことはありませんでした。

 

 

 

さて勝が老中阿部正外を褒めたことで薩摩と越前福井の両藩は、その後、阿部への接触を図ります。

この件では福井藩の方が積極的に動き、勝・西郷会談の5日後の9月16日(元治元年-1864年)、藩主松平茂昭が本田修理と酒井十之丞を引き連れ阿部を訪れました(酒井は19日にも訪問)。同21日には酒井と中根雪江(福井藩の重臣)が阿部に面会しています。

 

勝が阿部を評価したのは、朝廷に対しおもねることなく横浜鎖港は無理、攘夷もできないことを明確に説明した初めての幕府人であったからです。幕府の威光のことしか頭にない連中に辟易していた勝には、幕府内で珍しく気骨のある人物として目に映ったのでしょう。

 

当時、最大の懸案事項が摂海に外国艦隊がやって来た場合にどう対処するかにあることは、すでにお話しました。これに対し、勝が薩摩・福井の両藩に示した回答が「共和政治」構想です。

酒井と中根は11日の会談での対策を阿部老中に伝えました。

ところが阿部正外に幕府以外の諸藩が幕政に口出すのを受け入れる考えは全くありませんでした。

福井藩からの問いかけに対し、阿部は「諸侯の議を俟たず幕府限りで断然決定」するとの姿勢を示したのでした。

中根らは勝の考えとは明かさなかったでしょうが、阿部は勝に9日と11日(勝・西郷会談前)にも会っていますから、その出所が勝であると感じ取ったと思われます。勝の考えを阿部が知ったことは、その後の勝の将来に暗い影を落とすことになった可能性があります。ですがこの時の勝は何も知らずにいたのです。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書

・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

・「大久保利通関係文書 巻1」国立国会図書館デジタルコレクション

・「続再夢紀事 第三」「同 第五」国立国会図書館デジタルコレクション

 

写真・画像: ウィキペディアより