こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

2月に入りました。

前回の投稿から少し間隔が空いてしまいました。1月中頃に日本営業大学第3期が開校しその間、私も2回の講義(『ワーキング・ルール論』という講座を担当しています)があり、その準備も含め作業に専念していたためです。悪しからずご了承ください。

 

 

【 勝・西郷会談 その2 】

 

さて前回の続きです。

西郷は勝から、今の幕府には国の将来について深く考え、責任を持って対処しようとする人材がいないこと、もはや政治を担当するだけの能力を失ってしまっていることを聞かされました。

思いもかけない勝の言葉に西郷は、そこまで幕府の屋台骨は腐っているのかと落胆するしかありませんでした。

 

ふと西郷は大坂に出張してきている老中阿部正外のことを思い出し、

「勝先生、今在坂しておられる老中の阿部様とは、いかなる人物なのでしょうか」と阿部老中の人物について勝に尋ねました。

するとそれまで苦虫を嚙み潰したような顔をしていた勝の表情が一変しました。急に明るい顔になり、阿部老中のことを褒め始めました。

「阿部侯、そう阿部豊後守。西郷さん、あの人は人物ですよ。そうだあなた、あの人とぜひ会ってみるといい」

と勝は西郷に阿部正外に会うことを勧めました。

 

先ほどまで幕府はもうダメだと言い切った勝が、意外にも阿部老中のことだけはひどく褒めたのです。

勝は、翌日書いた越前藩主松平茂昭への返書の中で、阿部について「同人は其の覚悟も宜敷(よろしく)」と幕府内でも珍しく語り合うことができる人物だと書き送っています。そのため越前藩は後日、阿部正外と会談を持つことになります。

 

 

この日、西郷には勝にどうしても尋ねなければならないことがありました。勝に会いに来た最大の理由はそのことにありました。

それは外国艦隊が摂海(大阪湾)に進出してきたときの対策をどうするかという問題でした。前月、四国艦隊が下関で長州藩の砲台をわずか3日間で壊滅させたことは大きな衝撃となって伝わっていました。そのため次に外国艦隊がやって来るとすれば摂海に違いなく、防備対策を講じることは一刻を争う課題と考えられていたのです。

条約が締結されて以来、大坂・兵庫の開市開港問題は一向に進展しないまま時間が経過するだけであったため大きな問題となっていました。

 

幕府はこの問題に頭を痛めていました。大坂・兵庫を開市開港すれば近隣の京都への影響は必至です。外国人を忌み嫌う朝廷が激しく反発することは火を見るより明らかだからです。

一方の諸外国は、幕府が開港を決断できない最大の理由が朝廷の許しが出ないことにあるとの認識を持っていました。諸外国は兵庫開港を強く望んでいたため、近く外国の艦隊が摂海にやって来て開港を迫るのではないかと見られていたのです。

 

 

「勝先生、異国の軍艦が何隻も大坂湾に乗り込んで来るかもしれません。その時の対策はどうしたらいいのでしょう」

深刻な表情を浮かべた西郷の問いに勝はいかにも自信ありげに答えます。

「それについちゃぁ、私に考えがあります」

「……」

「異人たちは幕府の役人たちを軽蔑している。だから談判にも何もならないんですよ。ですからね、西郷さん」

勝は西郷の大きな目をじっと見つめるとこう言い放ちました。

 

「幕府なんぞもう当てにしねぇことです。ここはあなたがた雄藩の出番ですよ」

 

勝の思いもかけなかった言葉に西郷は息を呑むしかありません。勝はなおも西郷の目を真っ直ぐに見て語り掛けます。

 

「まずは天下に賢明な諸侯四、五人が集まって会盟することだ。そうして異国と一戦できるだけの兵力を整備し、横浜と長崎の両港を開く。兵庫は当分、開港しないと申し渡す。筋道を立て堂々と談判に及べば皇国の恥とはならず、むしろ異人たちも道理に服し条約を締結できるというもの。あ奴らだって馬鹿じゃありませんからね。そうなれば天下の大成もその方向が定まり、国是もきっと立つことになりましょうよ。いかがです、この策は」。

 

勝は西郷に胸襟を開き、胸に永く温めていた想いを西郷に向けて解き放つと共に自らの構想を語りました。勝の気合を込めた言の葉が確かな重みを伴ってビンビンと西郷の胸に伝わってきます。幕臣の立場にある勝が示したのは、幕府抜きの雄藩の藩主レベルでつくる大胆な政府構想です

 

 

 

 

西郷は大きな驚きと共に深い感動のような熱いもので自分の躰が包まれているような感覚に捉われました。目が覚めたとはこのことでしょう。これまでライバルの長州藩を追い落とし、薩摩藩の方針をいかにして実現すればいいかということばかりに心を奪われていました。

ですが、勝と出会い会談したことでこれまでの鬱屈が嘘のように吹き払われ、視界が一氣に拡がった想いがしたのです。薩摩が進むべき方向と取るべき行動が一本の道としてハッキリと目に見えたからです。この国の未来図をようやく手に入れたという想いが西郷の胸に溢れていました。

 

 

勝はさらに畳みかけます。

こうした会盟ができるまで、自分が外国艦隊を引き留めておきますよ、と見栄を切ったのです。勝にはこうしたことを平気で言ってしまう、そんなところがあります。そのため勝は「ほら吹き」と揶揄されたり批判されたりしています。ですがこの時の勝には、これまで多くの外国人と出会い、交渉の経験を積んできた自負から勝なりの目算と自信があったに違いありません。

 

勝はこの時、西郷に長州の件についても話したことでしょう。長州征伐は行わないわけにはいかないだろうが、藩領を分割するような手荒なまねをしてはいけない。それをやれば日本人同士の対立が深まるだけ。いついかなる時も背後に西洋列強が控えていることを忘れちゃいけないよと、勝は西郷に伝えたことでしょう。

というのは、当時の日本人にあって勝はつねに「世界の中の日本」という視点から物事が考えられる、唯一の存在であったからです

 

 

「諸外国がいつこの国を食い物にしょうとしているかわからない。そんな時期に日本人同士が争っていてどうなります。そんな愚かなことをやっている場合じゃないでしょう。西郷さん、あなたならわかってもらえるはずだ。それに会盟する雄藩にはいずれ長州にも加わってもらわなくてはね、そうでしょう」

勝なら西郷にこうしたことをきっと伝えたことでしょう。

 

 

西郷は会談から5日後の9月16日、国元の大久保一蔵(後の利通)宛に長い手紙を書いています。その手紙の中で勝に会った印象についてこんな風に伝えています。

 

「勝氏に初めて面会しましたが、実に驚き入った人物でした。最初は打ち叩くつもりで会いに行きましたが、とんと頭を下げました。どれだけ知略があるやら知れない塩梅に見受けました。先ず英雄肌合いの人物です。佐久間象山先生より一層事が出来ると見ました。学問と見識では佐久間は抜群でも、世にある難事に臨んでは勝先生の方が上回りましょう。ひどく惚れ込んでしまいました」

 

男が男に惚れる。人として最大級の評価を西郷は勝に与えました

この両者が出会ったことにより幕末史は、その後大きく転回していきます。

この日、勝は西郷に対し、『幕末のメンター』としての歴史的役割を果たしたのでした

 

 

さて久しぶりの執筆で筆が滑り、少し長くなってしまいましたが、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「西郷隆盛」第7巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社

・「氷川清話」 勝海舟 江藤 淳・松浦 玲 編  講談社学術文庫

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

・「大久保利通関係文書 巻1」国立国会図書館デジタルコレクション

写真・画像: 国立国会図書館デジタルコレクション 近代日本人の肖像及びウィキペディアより

 

 

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