こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

今回からの数話は、勝と西郷が初めて出会ったときのお話です。私が海舟ブログを始めてどうしても書きたかった歴史のエピソードの一つです。まさかここにたどり着くのに丸三年を要するとは全く思っていませんでしたが…(笑)。

 

 

【 勝と西郷の初めての会談 その1 】

 

さて前回の続きです。

西郷吉之助が幕府軍艦奉行の勝麟太郎と初めて出会ったのは、元治元年(1864年)9月11日のことです。その2日前の9日、神戸海軍操練所にいた勝は老中阿部豊後守正外からの呼び出しに応じて陸路で大坂に向かい、夕方、阿部が宿泊する旅宿を訪ねています。

勝が大坂に滞在していることを知った西郷は、京から夜船で下阪し、11日朝、勝宛に手紙を書きました。談合したい件があるのでお会いしたいが、いずれの旅宿に何時に訪ねたらいいか、勝の都合を問い合わせたのです。

使者からの手紙を読んだ勝は、自分が宿泊する旅館に来るように短い手紙を書いたのでしょう、その日のうちに会うことになりました。

 

 

この日、勝は西郷に会う前に老中阿部正外の許を再び訪れています。

阿部は、先に幕府が四カ国代表に約束した条約の勅許を得るため朝廷を説得する使命を帯びて京に派遣されていました。朝廷に出入りしていた阿部から勝は京での動きを聞かされました。

 

その日の勝の日記にこうあります。

「聞く、京師にて薩摩より建議あり、その言は、防長二州は半国を以て禁裏の御物成(おものなり)とし、半は征討の諸侯へ下されべし」

つまり薩摩藩が具申した提案は、長州征討後は防長二州の藩領を召し上げ、朝廷と征長に参加した諸藩で半分ずつ分け与えるというものでした。

 

この頃、西郷は宿敵長州を滅ぼしてしまえばよいとまで考えていましたから、その処分については過酷な方針で臨むつもりでした。ところが肝心の征長総督がいまだに決まっておらず、ここは腰の重い幕府の尻を叩く他ないと考え、幕府内でも話がわかる人物として知られる勝に会い、事態の打開を図ろうと目論んだのです。

 

 

9月11日、勝が滞在する旅館にやって来たのは、西郷の他に薩摩の吉井幸輔(友実)、越前福井の堤五市郎と青山小三郎の四人でした

 

 

(吉井 幸輔(友実)と西郷 吉之助)

 

 

この日の西郷の姿を勝は永く記憶に留めました。

勝の脳裏には西郷の巨体だけでなく、この日の身ごしらえが大層立派であったことが印象深く刻み込まれました。西郷は、轡(くつわ。丸に十文字、島津家)の紋の付いた黒縮緬(くろちりめん)の羽織を着て、いかにも大名の御留守居格の態であったのです。

 

 

旅館を訪れた四人を勝はにこやかに迎えます。

早速、堤と青山は藩主松平茂昭が勝宛に書いた手紙を差し出します。内容は、副総督に任命され上京したものの今も総督が決まっておらず、征討を行う将軍の進発の動きもわからない。どうしたらいいいか勝に相談に乗ってもらい、良い思案があるなら聞かせてもらいたいというものでした。そのためこの会見に臨む四人には、征討を指揮する将軍の上洛を促す役目を江戸で勝に果たしてもらおうという共通した算段がありました。

 

勝はあっさりとこの申し出を断ります。そして幕府内は、「上も下も目先のことしか頭になく自分たちの立場ことしか考えない連中で、公的な見地から議論する人物がいない。幕府が遠からず瓦解するのは避けられない」と開口一番、明言したのです。勝のこの発言には、阿部老中からもたらされた薩摩側の建議への批判が暗に含まれています。

 

この言葉に西郷は激しい衝撃を受けました

 

飛び出した言葉が過激であったからだけではありません。いくら幕府の権威が低下したとはいえ、幕府高官で国の防衛を担当する軍艦奉行職の要職にある者が軽々に口にする言葉ではなかったからです。またいくら薩藩を代表する立場にあるとはいえ、西郷は藩の一外交担当に過ぎません。一方の勝は、従五位下の位階を持つ安房守(あわのかみ)ですから西郷とは天地ほどの身分の違いがあります。さらに徳川の家臣である勝が外様で陪臣の立場にある西郷に幕府の内情を明かすなど許されることではありません。幕府に知られれば勝とてただでは済みません。

 

 

勝がこの日の会見で語ったことは、西郷が同月16日付けで国許の大久保一蔵(後の利通)に宛てた手紙からおおよそ知ることができます。勝の幕府役人への批判は相当に厳しいものであったようです。

 

「あなた方に言うのもなんですが、幕府はいよいよいけません。手の付けようがありません。この度の一戦(蛤御門の変)で長州が大負けしたもんだから暴徒がすっかりおとなしくなった。

幕府の役人たちは、すっかりこれで幕府に刃向かう者がいなくなり、太平無事の世に戻ったと思ってる馬鹿ばかりですよ。それでいて役人どもは抜け目がないというか老練でね、何か問題があっても一同で持ち合わせるという具合にして、どこが責任をもって対処するのかさっぱりわからぬようにしてある。」と因循な幕吏を批判しました。

西郷はただ驚き、勝の言葉に聞き入るしかありません。

 

「そんな手合いの中で最近老中になった諏訪因幡守忠誠(すわ いんばのかみ ただまさ)(※)ってのはひどい男でしてね。正論を唱える者があると、「なるほどごもっともごもっとも」と同意するかのように振る舞っておきながら、結局のところ正論を唱えた者を退けてしまう。とても尽力するだけの甲斐のないお方だ。それで今では誰も議論を立てようとする者がいなくなりましてね。実に嘆かわしいことです。」

西郷は押し黙ってただうなずきながら、勝の言葉に耳を傾けます。

 

「然らば奸吏を遠ざける策がないかと言えば、なくはない。一二の小人を退ける位のことは訳のないことだ。でも西郷さん、国家のために力を尽くそう、力を貸そうっていう考えを持つ者がいません。ですから結局言い出した者が倒れるしかないんですよ。」

 

幕府が救いようのない状態にあることを知った西郷は勝に尋ねます。

「では諸藩から力を尽くしてみてはいかがでしょうか」

勝は西郷の言葉に首を振ります。

「恐らくダメでしょうね。献策があっても受け入れる者がいませんからね。薩摩からこんな議論がありますと役人に持ち掛けると貴殿は薩摩に欺かれていると言われてしまい、挙句の果てに陥れられてしまいますからね。」

と苦笑を浮かべて勝は答えます。

 

 

西郷は一向に腰が定まらない幕府に発破をかけるつもりで勝との会談に臨みました。ですが勝に会ってわかったのは、幕府の内部がこれほどまでに屋台骨が腐った状態にあることでした。しかも幕府の絶望的な内情を初めて会った藩の一外交担当者にここまでオープンに語る勝の放胆さに感心する他ありませんでした。

西郷は、それほどまでに幕府内には人物はいないのか、先を見通す器量のある人物がいないのかと、暗澹たる思いで胸が塞がる気持ちになりました。不意に西郷の頭にある人物の名が浮かびました。その人物を勝はどのように見ているのか、どう評価しているのか聞きたくなったのです。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

※:元治元年7月23日に老中に就任

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「西郷隆盛」第7巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社

・「氷川清話」 勝海舟 江藤 淳・松浦 玲 編  講談社学術文庫

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

・「大久保利通関係文書 巻1」 国立国会図書館デジタルコレクション

写真・画像: 国立国会図書館デジタルコレクション 近代日本人の肖像及びウィキペディアより