皆さん、あけましておめでとうございます。

読者の皆様におかれましては、今年はどのような新年をお迎えになったでしょうか。私の周囲でも今年は例年ほどの賑わいがなく、随分静かなお正月となりました。

 

 

【年頭のごあいさつに代えて】

 

今私たちは、危機に直面しています。でも実のところ私たちが生きる世界にはおびただしい危険があり、生きるリスクは大きかったにもかかわらず、これまで自分たちは安全な世界に住んでいると勝手に信じ込んでいたのかもしれません。本当は生命の危険にあふれた世界であったことを忘れていた。いや忘れさせられていたといった方がいいのかもしれません。

 

それほどに生きる上でのリスクを回避する仕組みがこれまでうまく機能していたということでしょう。医学が進歩し、おかげで日常的に命を脅かされる機会にはめったにお目にかかることはなくなりました。もともと人に備わっていた危険に対する感覚を鈍いものにし、感じ取る力を弱めてしまったのかもしれません。本当は今もなお私たちはとても危険な世界に住んでいることに変わりはないのに。

 

そのように考えると、今回のパンデミックは私たちに何か大切なことを思い起こさせようとしているのかもしれません。本来、人に備わっているはずの危機に立ち向かう本能のような感覚を取り戻せと警告してくれているように思えなくはありません。

 

 

今から150年程前、この国にも未曽有の危機がありました。

それがどのような危機の時代であったのか、目の前の危機に対し先達たちはうろたえながらもどのように受け止め、いかにして立ち向かい、乗り越えようとしたのか。このブログはこうしたテーマを幕末から明治という時代を生き抜いた勝海舟という人物を軸にしてお伝えします。

 

 

当ブログも早いもので今月から4年目に入ります。昨年は新たな仕事も始めたこともあり、ブログを投稿するための準備時間の捻出がうまい具合にいかず、結果として投稿回数が減ってしまいました。今年も事情は変わりませんが、時間配分の仕方を考え、工夫して楽しみながら書いていこうと思っています。投稿回数が増えることを願って。

どうか今年もお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。また今年が皆様にとっていい意味で節目の年となり、健康で幸多き一年となりますよう心から願っております。

 

 

【西郷の登場】

 

さて前回の続きです。

長州藩が外国艦隊との戦争に敗れ、四カ国代表と幕府の老中たちとの間で会談が行われていた頃(元治元年(1864年)9月)、上方でも幕末史の方向を決定づける大きな動きがありました。

 

この2か月前には京で禁門の変が起きました。なかでも激戦の場となったのは、御所九門の一つである蛤御門でした。御所突入を図る長州藩の勢いに押され、御門を守護する会津藩は苦戦を強いられます。この時、援軍として現れたのが薩摩藩でした。その際、薩軍の指揮を執ったのが 西郷吉之助(きちのすけ。後の隆盛)でした。

 

もともと西郷は前藩主の島津斉彬(なりあきら)の直属の使番となって活動し、早くから薩摩を代表する志士としてその名を知られていました。斉彬没後、弟の島津久光が藩の実権を握りますが、西郷は久光とは終生馬が合うことがありませんでした。ある時、西郷の独断での行動が久光の逆鱗に触れ、沖永良部島への流刑を命じられました。

ところが、薩摩藩が政局に乗り出し、政治活動を推進していく過程で藩内から西郷を呼び戻せとの声が大きくなっていきました。こうした西郷待望論の流れに抗しきれなくなった久光は、大久保一蔵(後の利通らの説得もあり、ついに藩のため西郷の召還と起用を決意しました。

 

 

(西郷吉之助 後の隆盛)

 

 

西郷が現場に復帰したのは、この年(元治元年)の3月。勝が期待をかけた参与会議が崩壊した頃です。西郷は上京すると久光に拝謁し、軍賦役兼諸藩応接役に就任しました。薩摩藩の代表として対外折衝を担当すると共に薩摩兵を指揮する役割を担いました。

禁門の変では、薩摩藩兵を率いて指揮に当たり長州兵の猛攻に苦しむ会津藩を救援する奮戦を見せました。この活躍により西郷の名はさらに高まりました。

 

 

【 難航した長州征討の総督選び 】

 

その後、西郷は幕府が決めた長州征伐を一にも早く実行に移すことに取り組んでいました。尊攘派勢力が後退したこの機に薩摩が政局の主導権を握り、優位な立場をより強固なものにしようと西郷は考えていたのです。長州征討の勅命が下りた今こそ宿敵長州藩を叩きのめす絶好の機会でした。

この頃の西郷は長州藩に対し強い敵対心を持っていました。そのため「兵力をもって懲らしめ降伏すれば東国に国替えするくらいでなければ、この先、薩摩の災いになりかねない」と厳しい態度で臨もうとしていました。

 

西郷は一橋慶喜を征討総督とした長州攻めを思い描いていましたが、慶喜を信用していない幕府には慶喜を起用する考えは毛頭ありませんでした。

この頃幕府はかつての幕府の権威が高かった時代への回帰を望んでいました。有力諸侯との新たな会議体を拒否し、禁門の変で尊攘派を追放し、今また長州藩が四カ国の砲撃で完敗した知らせを手にしました。こうしたことから幕府は急速に反動化していきます。

抵抗勢力がいなくなったことで昔のような時を取り戻せると考えたのでしょう。

そのことを象徴するかのように9月1日、幕府は参勤交代を復活させ、全国の諸大名を驚かせました。もはや幕府には時代の変化に自ら対応しようとする柔軟な姿勢は全く見られなくなりました。

 

そんな情勢の中、征長軍の参謀に就いていた西郷は勅命が下りているにもかかわらず、一向に長州征伐が進まないことに苛立ちを感じていました。征長総督を誰にするかは難航しました。当初、幕府は紀州藩主を起用しようとしましたが、会津藩などの反対にあい断念。

そこで尾張の徳川慶勝(よしかつ。元尾張藩主)を征長総督に、越前福井藩主の松平茂昭(もちあき)を副総督に指名しました。

慶勝は難色を示し、茂昭も承諾を渋りました。そこで薩摩藩が越前に働きかけ、茂昭の副総督が先に決まりました。ですが総督は空席のままでした。

茂昭は越前から京都に出てきたものの、慶勝は総督を引き受けたがらないためなかなか事が運びません。この時、茂昭の供として堤五市郎と青山小三郎の二人の越前福井藩士が一緒に上京していました。両人は西郷に会いに行き、老中に呼び出されて大坂にいる軍艦奉行、勝との面談を提案しました。勝は近く江戸に戻ると聞いているので、征討軍の将軍進発を申し入れてもらってはどうかという提案です。西郷はすぐに賛成しました。

 

西郷はこれまで勝と会ったことはありません。ですが、勝が軍艦奉行になる以前から勝麟太郎の名は知っていたはずです。というのは、勝は長崎海軍伝習所にいた頃、二度、鹿児島を訪れています。その時、藩主であった島津斉彬に会い、身分の違いを超えた待遇を受け、意気投合して語り合っています。西郷が斉彬から幕府内にも勝麟太郎という人物がいることを聞かされていたことは想像に難くありません(第37話、第38話)

こうして勝と西郷の両人が初めて顔を合わせることになるのですが、その時、どのようなことが語られたかは次回お話することにしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「西郷隆盛」第7巻 海音寺潮五郎 朝日新聞社

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

写真・画像: 国立国会図書館デジタルコレクション 近代日本人の肖像より