こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
ドラマ『半沢直樹』がついに終わってしまいました。
日曜日の夜の楽しみが一つなくなったと感じておられる方も多いのではないでしょうか。私もその一人です。熱いドラマでした。語り始めると長くなるのでここではやめておきます(笑)
【 禁門の変後の京での風評と政情不安 】
さて前回は禁門の変が起きたところまでお話しました。
神戸にいた勝は東の空を見て長州兵と幕府側との間で武力衝突があったことを知ります。直ちに観光丸で出航し、7月20日(元治元年)明け方大坂に到着しています。
勝は情報収集に務める一方、日記に「京地の風評」について「長を善とし、會(会津)殊に悪説あり」と記しています。京都人の多くが長州びいきでした。かつてこの街で大金を費消してくれた長州人への思い入れが強くあり、そのため京を追われ、止むに止まれぬ思いからこの度の挙行に至ったことへの同情が強かったのです。そうなると敵方の会津藩の評判が悪くなるのは避けられません。
暴走した長州藩には理解を示した勝ですが、薩摩藩と会津藩の対応の仕方には別な見方をしています。
「薩、會の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものなり」と両藩に批判的な態度を取っています。
会津藩については、「會津は、上に人物なく、下士激烈、…(中略)…。その規模殊に狭小、必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむ可し」と手厳しい言葉が並びます。
薩摩藩については、「薩は、形勢を明察し、機会に乗ずる天下第一といふべく、昨冬已来(いらい)、長人是に仇すれども、私怨を忍び、敢て咎めず、彼が挙、不正に到るに及で、憤怨以てこれに答えんとす。尤も巧なりといふべし」と冷やかな目で評価を下しています。
【 幕藩体制瓦解への危機感を募らせる勝 】
勝は禁門の変後の政情不安に対し至急に講じるべき諸策について独自の視点から論じた意見書を提出しています。
意見書では畿内の混乱と人心の動揺への対策を講じることを最優先すべきとし、敗走の兵を取り押さえることなどは細事に過ぎぬと断じています。そんなことより先にやるべきことがあるというのが勝の考えでした。
まず大規模な火事に見舞われた食糧や必需品が払底した京都への米穀や生活物資などの輸送手段の確保することに着手すべきと指摘します。
次に「大坂は三都会の大問屋であり、京・江戸に諸貨を積み出し四国・九州からも米穀が集まり二都に配送する地のため、この地に騒乱が起きれば三都は瓦解し、人心の動揺から各地で一揆の蜂起を招きかねない」と為政者の立場から危機感を明らかにしています。
また江戸近郊でも騒乱が起き、全国各地で物資の流通に障害が生じていることから、ここは海軍を使えと提案します。「海軍を興し、海路」による輸送の活用を勧めています。摂海防衛についても砲台築造の手を休めてはならないと主張します。
そんな折、京で会津藩が長州兵の生き残りを捕え残らず斬首したとの報を耳にし、勝はこう記しました。
「ああ何事ぞ、是等の鼠輩、逐放して可なり。罰過酷なると時は、災、必ず再起せん。或いは私怨に出ずるか。掠事者、皆、狭小の心より出ず。」
【 龍馬、大久保忠寛の復帰と退職を報告 】
大坂での仕事に切りをつけた勝は同月27日、神戸に帰ります。
翌日、龍馬が江戸から翔鶴丸に乗船し神戸村に戻ってきました。
龍馬から勝は衝撃的な知らせを受け取ります。
7月21日、大久保忠寛(越中守)が勘定奉行として復活しました。ところがその5日後にその職を解かれたというのです。
忠寛は幕府内で初めて大政奉還を説いた人物で、勝の同志的存在です。2年前、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)に就任しましたが、強直で一歩も引かぬ硬骨漢であったことも災いし、講武所奉行に左遷された後、同奉行も罷免されてしまいました。
今回は勘定奉行勝手方として返り咲いたのですが、再び御役御免となってしまうのです。勘定奉行と言えば幕府の財政全般を握る要職中の要職であり、たった5日でクビにされるというのはあまりに異常な人事でした。
その理由は、忠寛が将軍家茂に再上洛すべしと主張したのに対し上洛する必要なしとする板倉勝静その他の老中らとの間で激しく意見が対立したためと言われています。
(NHK大河ドラマ 勝海舟で大久保忠寛(一翁)を演じた小林桂樹氏)
忠寛が勘定奉行に任命された21日は、禁門の変の2日後ですが、この時期、江戸にはこの情報はまだ届いていません。
もともと厳しい財政事情にあった幕府ですが先年、家茂の上洛により巨額の支出が生じ、財政の立て直しは喫緊の課題でした。そのため勘定奉行は、有能かつ周囲の批判にもぶれない強固な意志の持ち主でなくては勤まらない職務です。幕府内にそんな剛直さを備え、一徹な人物と言えば大久保忠寛おいて他になく、まさに打ってつけの起用と言えました。
かねてより将軍は京に留まり朝廷と共に政治を進めるという考えを持っていた忠寛は、就任すると直ちに将軍再上洛を進言しました。
京の緊迫した情勢については忠寛の耳にも入っており、事態収拾のため速やかな将軍上洛を進言したのです。
当初は家茂も同意し、その方向で進みました。ところが老中らから異議を唱える声が出始め、激しい議論の末、忠寛の進言は退けられたのでした。
もし家茂が早い段階で上洛していれば)、御所に向かって発砲し禁門の変を起こした長州藩兵を鎮圧するための幕府軍の指揮は将軍が執ることになったはずです。将軍自ら再上洛すべしとする忠寛の政治的判断は時宜に叶った適切なものであったのです。
ですが、老中たちは将軍を京に送ることに反対しました。
京には禁裏御守衛総督の一橋慶喜がいます。慶喜は天皇と京を守護すべき職務にあります。しかもこの職は朝廷が任命したため徳川幕府内の職制にないものです。江戸の将軍が家茂なら京の将軍は慶喜。今や二人の将軍がいる状況でした。この時期の慶喜は江戸の幕閣から全く信用されておらず、むしろ将軍の立場を脅かす存在として疑いの目を向けられていました。こうした事情も上洛反対に影響していたのかもしれません。
幕閣らには若い将軍を臣下として守り抜きたいという強い想いがあったことも否めません。ですが、激動する時代に為政者が採るべき政治的行動はどうあるべきかというテーマを自らに問うことを当時の幕閣らが行うことはありませんでした。
龍馬からこうした報告を受けた勝の胸に去来する思いはどのようなものであったのでしょうか。いよいよ幕府はいけない、大久保さんの意見を取り上げず、こうしたことがまかり通るようになってしまってはどうにもならない。そんな風に考えていたのかもしれません。
忠寛は、翌元治二年に隠居を願い出ました。2月許可され、家督は息子が継ぎ、自身は「一翁(いちおう)」と称しました。一翁大久保忠寛は、四十九歳で不本意ながらも政治の最前線から身を退く覚悟を決めたのでした。
さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「大久保一翁」 松岡英夫 中公新書
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍
写真・画像: ブログ「2020、映像メディアは死んだ ~ テレビドラマ・映画・Web動画をめぐっ
て」から 「『勝海舟』その1 ~ 闘争劇・倉本聰と『北の国から』前夜 ~」の回より