こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
【「禁門の変」前夜の不穏な情勢】
前回の続きです。
元治元年(1864年)6月から7月にかけ、長州軍は続々と京に迫り、伏見、山崎・天王寺そして嵯峨の三か所に集まり、夜はかがり火を焼きながら入京の機会をうかがっていました。そのため京の街は不穏な空気に包まれ、幕府側との間で一触即発の状態にありました。
この時期、不穏な情勢にあったのは京都だけではありません。
北関東では水戸藩攘夷派の過激なグループによる騒動が起きていました。尊王攘夷を唱え、横浜鎖港の即時実施を求める水戸の天狗党が挙兵したのです。やがて人数が膨れ上がると軍資金を調達するために強奪、放火、殺戮を行うようになり、暴徒化していきました。そのため北関東の治安は極度に悪化しました。
この頃、江戸の政局も不安定な様相を呈していました。
6月、幕閣の大異動がありました。この時期、政事総裁職を務めていたのは松平直克(川越藩主)で、横浜鎖港推進の責任者でした。先に将軍家茂は鎖港を天皇に約束していましたから、幕臣でそのことを知らぬ者はいません。ですが幕閣の中には鎖港反対の者がおり、そのため直克は将軍の方針に協力しない幕閣らの名を挙げて家茂に罷免を要求しました(第133話)。
名指しされたのは、老中板倉勝静、酒井忠績(ただしげ)を始め、若年寄 諏訪忠誠らでした。彼らは翌日から登城しなくなったため城内は幕閣不在の日々が続きました。
同月18日、板倉・酒井老中他の幕閣が罷免されます。ところがその4日後、今度は罷免を要求した直克が総裁職を免じられました。
どうしてこのようなことが起きたのでしょうか。
この頃、天狗党の乱はますます激しくなり、そのため北関東の治安は乱れるばかりでした。
幕府は水戸藩とその周辺諸藩に鎮撫要請を行うのみで自らの手による暴徒鎮圧のための対策を講じませんでした。
かかる事態にも松平直克は天狗党鎮圧に反対の態度を取り続けたため幕府内から厳しい批判が起こり、罷免に至ったのです。
【 幕府への批判を強める勝 】
こうした動きがある前に上方に出張していた勝の許にも関東の動きに関して次々と知らせが届きます。勝の日記から当時の不穏な情勢と幕府上層部の混乱ぶりを知ることができます。
「関東混雑、他日に倍す。諸官、唯不平を鳴らして出営なき者甚だ多し。…(中略)…常(上)州の水(戸)藩、草賊輩横行、征伐の諸侯、力に及ばざるか。将た閣老初め朝進夕退、策施す所なく、悠々不断、終に大事に居たらんとする形勢あり」。
勝は出仕しない幕吏らの無責任さと足元で起きた水戸の騒動を鎮めることさえできない幕府上層部の無策ぶりを批判しています。
数日後の日記。
「表向き攘夷鎖港を主張している幕吏たちも内心は恐怖するばかりで、本来幕府が採るべき処置が少しも行われない。今になってようやくわかったのではないか。参与会議の折、攘夷と鎖港の方針を撤回し、これからは開国と交易を国の方針とすることを定めていれば、このような危機的な状況に陥らずに済んだものを。たとえ瓦解が迫ろうとも変革の時を刻むことができたはず」。
日記からは参与会議の崩壊を今なお悔やむ勝の心情が伝わってきます。
この数年、勝は幕命により東奔西走し、幕府に対し周囲から嫌われ疎まれながら着手すべき方策について繰り返し具申を行ってきました。ですが「公」とは何かを思索し続け、この国の将来のために行った提言は、「忠告数十、一も透貫せず」に終わりました。
「今、この国難に当たって、空しく憤死せんとす」。こうした記述から、どう働きかけても何も変えることができない現実への苛立ちと怒りに身もだえする勝の姿が浮かんできます。
【 激戦の場となった蛤御門 】
そんな矢先の7月11日、京で衝撃的な事件が起きました。三条木屋町で勝の妹婿に当たる佐久間象山が暗殺されたのです。
「(象山)先生は蓋世の英雄、その説正大高明、能く世人の及ぶ所にあらず。…(中略)…。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」。
この頃の勝にとって胸に痛みを覚えない日はなかったに違いありません。
ついに7月19日早朝、京都御所で戦いの火ぶたが切られました。
先に攻撃を仕掛けたのは長州側です。御所を守護するため迎え撃つのは会津藩をはじめ桑名藩と薩摩藩らの諸藩です。両勢力の間で「禁門の変」と呼ばれる戦闘が始まりました。
とりわけ激戦が繰り広げられたのは、来島又兵衛率いる長州部隊が攻め込んだ蛤御門での戦闘でした。このことから禁門の変は「蛤御門の変」とも呼ばれています。
(禁門の変)
この門は長州の宿敵である会津兵が守備につき門を固めていました。来島は先頭に立って兵を指揮し猛将の名に恥じない勇敢な戦いぶりを示しました。そのため会津側は苦戦を強いられますが、西郷吉之助率いる薩摩藩が援護に駆けつけると長州兵は敗退し来島は戦死しました。また炎上した鷹司邸で戦っていた久坂玄瑞は味方の寺島忠三郎と互いに刺し違えて命を絶ちました。高杉晋作と共に松陰門下の双璧と謳われた逸材は二十五歳にしてその命を散らしたのでした。
(久坂玄瑞の肖像画)
禁門の変により京都市内は次々と火災が拡がり、丸焼け状態になりました。およそ二万八千戸が焼失する大規模な火災であったことから「どんどん焼け」の名で今も語り継がれています。
京都の街がこれほど大規模に焼かれたのは長州軍が敗退の際、藩邸に放火したことが一つの原因です。その他には禁裏守衛総督の一橋慶喜が公卿屋敷に入り込んだ長州勢を追い払うため火をかけさせたこと。また幕府軍や薩摩勢の砲撃により炎上した火が市街に燃え拡がったためと言われています。
(京都御所の蛤御門)
このとき神戸にいた勝は、暮れ六つ(この時期の季節から判断すると午後8時近くか)に東の空が赤く染まっていることに氣づき、京で非常事態が発生したことを知りました。勝は直ちに神戸海軍操練所所属となったばかりの観光丸の出航準備を命じます。
翌朝、大坂より京での出来事に関する第一報が届きました。
「京師に於いて、長(州)藩発砲、伏見表、並びに竹田街道、蛤御門等、戦争相始まり候趣。その他は雑説紛々」。
情報が錯綜する中、勝はこの度の長州の「暴発」が「過激輩の一時愉快心より生じ、その事採るべきものなし」と断じました。
幕臣の立場にある勝が、頑迷固陋な一部の者たちが藩を巻き込み暴走したものであり、長州藩主の意思によるものでないとの認識と長州への理解を事変直後の段階で早くも示していることは注目に値します。
さて今回はここまでとしましょう。長州を迎え撃った薩摩と会津に対して勝はどのような想いと考えを持っていたのか。その辺りについては次回お話しすることにします。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「木戸孝允」 大江 志乃夫 中公新書
・「幕末の長州」 田中 彰 中公新書
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
・「幕末史」 半藤一利 新潮社
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍
写真・画像: ウィキペディアより