こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 坂本龍馬の蝦夷地開発構想 】

 

前回の続きです。

元治元年(1864年)6月9日、勝は大坂への出張を命じられます。

同月12日、長崎丸で品川を出航しますが、シリンダー故障により一旦下田港に引き返し、代わりの船を待つことになりました。

17日、乗替船として翔鶴丸が、長崎丸の引船として黒龍丸が入港します。このいずれかの船に乗って江戸からやって来たのが坂本龍馬です。龍馬はこの時、勝に「蝦夷地開発構想」について語っています。

 

龍馬の構想とはどんなものか。勝の日記にはこうあります。

それは京・大坂の過激な尊攘派浪士数十人(二百人程-龍馬が大風呂敷を広げたためかを蝦夷地に移住させ、開拓と通商の仕事に従事させようとする計画でした。この構想を実現するには龍馬が自由に乗り廻すことができる船の確保が必要になります。龍馬は黒龍丸に目をつけました。船の使用については朝廷と老中水野忠精(ただきよ)がすでに承知しており、三、四千両の資金調達の目途も立っていると得意げに師に語ったようです。

龍馬は龍馬なりに尊攘派の志士たちに生きる目標を与え、命を粗末にしなくて済むようにし、また新たな国づくりにための仕事に従事させようと目論んでいました。

 

黒龍丸はもともと越前福井藩が購入した船で、この時期、幕府が買い取る方向で話が進められていました。神戸海軍操練所には航海練習船として観光丸がありましたが、勝は黒龍丸も使用したいと考えていました。時期を同じくして双方が黒龍丸に注目したことになります。いみじくも船の使用を巡って師弟が対立する恰好になったのですが、この時の龍馬の様子について勝は日記に、「士気甚だ盛んなり」と記し、弟子に先んじられたことを悔いる様子は感じられません。

 

 

【池田屋事件と望月亀弥汰の死】

 

残念なことに龍馬のこの構想が実現することはありませんでした。というのは勝と龍馬が下田港で出会う10日余り前、京である事件が起きていたからです。幕末史における尊攘派弾圧事件として有名な「池田屋事件」です。

6月5日夜、京都三条小橋近くにある旅籠池田屋に長州藩や土佐藩などの尊攘派志士が集まり、会合していたところを近藤勇率いる新選組が襲撃し、肥後藩の宮部鼎蔵(ていぞう)、長州藩吉田稔麿(としまろ)ら名のある志士が命を落とし、また捕縛されました。

 

勝が龍馬と下田で会ったのは同月17日ですが、この時点では池田屋事件のことを双方ともまだ耳にしていません。もし知っていたら両者の間で話題に挙がらないはずがありません。なぜならこの事件の犠牲者となった望月亀弥太(かめやた)は龍馬と同じ土佐藩出身で勝の門弟でもあったからです。

 

 

(池田屋事件があった址)

 

 

勝は龍馬と別れると下田を出航し、20日、大坂に到着しました。

勝が池田屋事件について知るのは、日記によると6月24日のことです。

「京師、当月五日、浮浪殺戮の挙あり。壬生(みぶ)浪士輩(新選組のこと)、興の余、無辜を殺し、土州の藩士、又、我が学僕望月生などこの災に逢う。」

望月亀弥太は藩命により龍馬と共に勝の下で航海術を学び、神戸海軍操練所に入りました。藩から帰国命令が出されましたが脱藩、尊攘派志士たちとの交流がありました。事件当夜、池田屋を辛うじて脱出したものの捕り方に追い詰められ自刃します。享年27歳。前途有望な若者が命を落とさねばならなかったことに勝は憤怒の言葉を書き記しました。同郷の龍馬もまた深く嘆き悲しんだことは言うまでもありません。

 

 

この頃、京の治安を守っていたのは、一橋慶喜(禁裏御守衛総督)、京都守護職の松平容保(会津藩主)と京都所司代の松平定敬さだあき、容保の弟。伊勢桑名藩主)のいわゆる一会桑(いっかいそう)勢力です。

特に京の治安を守る役割を担って華々しく活躍することになるのが会津守護職預りの新選組です。この事件により新選組の存在は広く世に知られるようになりました。

 

前年、長州藩が京都から追われ、参与会議崩壊後には薩摩、越前、宇和島の各有力諸藩も帰国したことで京は表向き静かになりました。

こうした情勢に攘夷派の志士たちが再び京都に密かに集まり始めます。長州藩も京での失地回復の機会をうかがっていました。

そんな頃、新選組は探索により攘夷派浪士が集まり、会合を重ね御所と京都市街に放火し、中川宮を幽閉し、松平容保を斬殺する企てがあるとの情報を入手します。これがきっかけとなり、池田屋襲撃事件が起きたと言われています(※)。

 

 

【 暴走する長州藩 】

 

8・18政変により京都政界から追放されて以来、長州藩は逆賊と呼ばれ、藩主父子は国許での謹慎を命じられていました。

長州藩としてこうした事態を打開するためどうするか、藩論は二つに分かれ激しく対立していました。武力により事態の打開を図ろうと考えたのは、来島又兵衛(きじま またべえ)、久坂玄瑞(くさか げんずい)らの急進派でした。兵を引き連れ、京に乗り込み大勢を挽回しようとする進発論を唱えたのです。

一方、これに猛反対し慎重論を唱えたのは、周布政之助(すふ まさのすけ)高杉晋作らでした。潜伏先から帰国した桂小五郎も同意見でした。

ところが池田屋事件の報が伝わると藩内は激高します。

一気に進発論に火が点き、藩の暴走を必死で食止めようとする周布や高杉らの自重論の声はかき消されてしまいました。藩命により高杉晋作が血気に逸る来島の説得に当たりますが、この藩内一の猛将は藩主の言葉さえ聞く耳を持ちませんでした。

もはや激情に突き動かされた勢いを止められる者は誰もいません。藩主父子の雪冤のための挙兵という大義名分の下、福原越後と二名の家老に率いられた長州軍は京都に向けて進発します。

 

 

6月下旬、京都近郊の伏見、山崎・天王寺そして嵯峨の三か所に長州藩兵と長州系浪士らが結集しました。入京許可を求める長州藩に対し京都側の意見は分かれました。長州に同情的な公卿や諸藩がいる一方で入京を阻止しようと考えていたのは会津藩をはじめ薩摩藩、桑名藩らの勢力でした。

朝廷内でも長州寄りの公卿と公武合体派の公卿の間で意見は対立したため孝明天皇は禁裏御守衛総督に一任しました。委任された慶喜は説得により退去を求めますが、暴発したエネルギーで満ち溢れる長州藩が応じることはありませんでした。

 

ついに7月19日早朝、戦端が開かれます。

いわゆる「禁門の変」の始まりとなるわけですが、この噺は次回とさせていただき、本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

※:従来より、池田屋襲撃については新選組が尊攘派志士たちの企てがあることをつかみ、それを阻止するための行動であったとされていましたが、近年ではこれは新選組によるでっち上げではないかという考え方が有力になっています。志士側の記録にはそうした内容が残されていないことに加え、新選組が得たとされる情報は捕らえた古高俊太郎を拷問にかけ白状させたものであり、その後、古高が処刑されたことから志士らによる陰謀を裏付けるものがないためです。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

・「木戸孝允」 大江 志乃夫 中公新書

・「幕末史」 半藤一利 新潮社

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

 写真:「歴史伝」 池田屋事件とは?新撰組襲撃の真相について!坂本龍馬との関係は?

     から転用