こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 8月18日政変後の動き 】

 

今回は文久三年(1863年)8月から話を始めましょう。

薩英戦争をきっかけに親英・開国へと大きく舵を切った薩摩藩の次なる一手は、会津藩と手を組み、京都から尊攘激派の公卿と長州系志士を追放することでした(8月18日の政変)

このクーデターにより長州藩の追い落としに成功した薩摩藩は京都政界での政治的地位を高める一方、朝廷と幕府の権威を大いに傷つけました。

勝がこの政変を知ったのは、日記によれば同月23日のことです。

勝は、「嗚呼、一雄倒れば一雄起る。真に乱世の姿勢、朝威幕威共に地に落つ」と記しました。

 

勝は江戸城に登城し、直ちに慶喜と老中板倉周防守に、「当今の形勢、実に累卵の危あり」と訴え、将軍自らが上洛し有力諸藩の諸侯と会議を開き国是を定めるよう必死の建言を行いました。勝の胸に秘められていたのは、この機に何としても幕府と雄藩で国の方針を決める機関を創設するための動きを一気に加速させねばという並々ならぬ決意でした。

 

9月、老中酒井忠績(ただしげ)と軍艦で上方に出張した勝は、福井に引き籠っていた春嶽に手紙を送り上京を促します。

ですが春嶽はすぐに動くことができませんでした。数か月前、福井藩内でも政変があり、藩内がごたついていたからです。

藩内の改革派は、兵を率い京で国家の一大方針を決める全国会議を開催するため挙藩上洛計画を推し進めていました。この構想の中心には横井小楠がいました。福井藩は他の諸藩にも協力を求めるため、すでに使者を各地に送り出していました。

 

ですが藩内には自重論を説く重臣もおり、ストップがかかります。止めたのは、意外にも松平春嶽でした。小楠が描く構想には藩の存亡を左右する危うさがあり、さすがの春嶽もそこまで踏み込む思想家横井小楠の考えについていけなくなったのです。ついに両者は袂を分かつことになりました。福井に留まる意味がなくなった小楠は同藩を去ります。その後、改革派は春嶽により処分されました。

 

 

この時期の勝の行動で注目すべきことがあります。

前月、京都から追われ潜伏中の長州藩尊攘派の頭目である桂小五郎が勝を訪ねて来て密談をしています。

 

 

(桂小五郎)

 

「桂小五郎来る。密話数刻。その困苦を話し」とあり、藩の窮状を勝に切々と訴えたようです。また桂は、「当時、鎖港攘夷の事、激徒といえ共出来ざるを知る」と語り、長州の指導者たちがすでに鎖港も攘夷も不可能なことを理解していたことがわかります

勝は幕府官僚でありながら、あれほど幕府を窮地に陥れた長州藩のリーダーである桂に憎悪の感情を抱くことなく会っています。こうしたところにも立場の違いを超え、分け隔てなく挙国一致の政治体制を打ち立てようとしていた勝の政治的信条がうかがえます。

 

 

【 島津久光の上京と参与会議の開催 】

 

さて先の福井藩の方針に積極的に同意し実行に移したのは薩摩藩でした。

同年10月、すでに開国論に転じていた薩摩藩の島津久光は1万5千の大軍を率いて入京すると雄藩諸侯を京に呼び集めるための手紙を送りました。春嶽にも上京を催促しました。

久光の上京目的は、朝廷に鎖港と攘夷の方針を撤回させ、積極的な開港と交易活動を盛んにする方針の採用を迫ることでした。朝廷からの呼びかけに応じ春嶽や伊達宗城、山内容堂が上京してきます。幕府からも将軍家茂と一橋慶喜が上洛することになりました。

こうして久光が中心となって合議機関設立により政局を安定させようとする動きは、翌年に開催される「参予会議」の成立につながっていきます。

 

 

(伊達宗城と山内容堂)

 

 

勝は上京した春嶽に会い、政治姿勢にぶれがないことを確認すると、将軍が速やかに上洛し、諸侯らと議論をして政治を一新する必要があることを閣老に伝えよという春嶽の要請を快諾しました。

こうして勝は再度の将軍上洛と参与会議の開催に向けて大きな役割を担って江戸に向かいました。

 

江戸に戻った勝には大きな仕事が待っていました。この度の将軍の海路上洛を幕府軍艦が諸藩の蒸気船を引き連れた連合艦隊で行うことが決定していたのです。勝は責任者として奔走し、年も押し詰まった12月28日、八隻の艦隊は威風堂々たる艦影を海に映して品川を出航しました。

翌文久四年1月(この年2月20日、元治に改元)、家茂が乗船する翔鶴丸は大阪天保山沖に投錨。勝は将軍一行を大阪まで送り届ける大役を無事果たし終えました。

 

京では先に入京していた一橋慶喜、松平春嶽、伊達宗城、松平容保、山内容堂らは前年12月30日、島津久光は翌年1月に参与に任命され、こうして参与会議の開催準備が整いました。

 

この頃、神戸の地にいた勝は操練所建設と私塾運営の仕事に専念していましたが、参与会議の行く末に期待しつつも不安を感じていました。将軍共に上洛した江戸の幕閣と参与の関係が良くないことが伝わっていたからでした。

 

 

2月に入ると京から呼び出しがあり、勝は二条城に向かいます。

登城すると各参与が同席する中、勝は慶喜から長崎行きを命じられます(2月5日)。前年、長州藩が関門海峡で行った砲撃に対する外国の報復を阻止するための交渉の仕事でした。

参与会議の行く末に大きな不安を抱きつつ勝は長崎に向け兵庫を出航しました。長崎を訪れるのは実に5年振りのことでした。

 

(文久元年(1861年)の長崎)

 

海軍伝習所時代、長崎に滞在する諸外国の要人と情報交換するなどの交際がありました。なつかしい再会を果たした勝は、かつての知己を通じて外国と交渉し、長州への攻撃を二か月猶予してもらえる約束を取り付けました。英、米、蘭の各国は長州問題が幕府により解決されるならと期待し、勝の言葉を信じ待つことに応じたのです。

 

 

こうして首尾よく任務を果たし京に戻った勝を待っていたのは、参与会議崩壊という現実でした。勝が長崎出張前に抱いていた不安は不幸にも的中してしまいました。

開国方針は確立せず、幕府と雄藩による会議体は跡形もなく消え去りました。

長崎で諸外国が勝に与えた二か月の攻撃猶予も横浜鎖港の撤回を前提としていました。ですが天皇は横浜鎖港に拘り、将軍と老中は江戸を発つ前から幕府の方針を横浜鎖港に決定していました。

幕府は参与会議で政治の主導権を薩摩に奪われることへの警戒感から天皇に迎合することに終始したのです。慶喜は当初、横浜開港に反対の立場を取らなかったものの老中への説得が難しいと見るや春嶽らを裏切り幕閣に同調しました。

そのため久光が京に乗り込み、春嶽らと朝廷が掲げる鎖港と攘夷の方針を変えさせようとする努力が実ることはありませんでした。

勝の交渉努力も空しい徒労に終わり、胸に残ったのは深い失望だけでした。

 

 

参与会議を潰したのが、幕政に対する薩摩の介入を認めようとしない江戸の幕閣であり一橋慶喜であったことは疑いがないところです。

この時、幕府が取るべき道は、この国の未来についてのビジョンを描き諸藩に協力を求め共に国難を克服しようとする姿勢を示すことであったはずです。ですが江戸の幕閣が現実に選択した道は、いかに幕府の立場を守るかことに汲々とすることでしかなかったのです。

 

 

さて長くなりましたが、「これまでのあらすじ」は今回で終了です、次回からは従来のブログに戻ります。引き続きよろしくお願いします。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「横井小楠」 松浦 玲 ちくま学芸文庫

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

 写真:人物はウィキペディアより

    幕末の長崎の風景は、東京都写真美術館開催の展覧会『写真発祥地の原風景 長崎』

    (2018年3月6日~5月6日)で展示された「長崎パノラマ」(部分)1861年(文久元年)より