こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
コロナウィルス感染拡大防止のための外出自粛により世の中の風景は一変しました。
こんな時には人の様々な姿が見えてきます。目の前の命を救うために身の危険を顧みず懸命に見えない菌と戦っている方々や社会を支えるための仕事を人知れず黙々と行う人たちがいます。その一方で、外出自粛を求められていることを知りながらも自分の持て余した時間を楽しく過ごすことにしか関心を持たない人たちもいます。人はそれぞれ、世の中はこうしたものかもしれません。こんな時に思い浮かべたい短い言葉があります。
「世のため人のため」
最近は以前ほど耳にすることが少なくなった氣がします。まずは日々の生活の中で自分の発する言葉、振る舞いがそれに反するものになっていないかどうかを自らに問うことを習慣にします。批判しているだけでは何も良くなりませんから。
さて海舟ブログです。
【 解体していた参与会議 】
前回の続きです。
勝が佐賀関から船に乗り、兵庫に投錨し大坂に到着したのは元治元年(1864年)4月12日でした。勝が二か月振りに上方に戻ってみると政局は出立したときと全く変わってしまっていました。
参与会議はすでに崩壊しており、勝が長崎出張前に抱いていた不安は不幸にも的中してしまいました。しかも参与会議がつぶれたのは、勝が旅立った直後の2月中頃のことでした。
では勝が不在にした京ではどのような動きがあったのでしょうか。
参与会議の開催目的の一つは、天皇が同席する雄藩の開明派諸侯による会議の場に幕府も呼び、朝廷に鎖港と攘夷をあきらめさせ、積極的な開港と交易を行うことを国是として決定することにありました。同年1月、会議が始まります。薩摩の島津久光と越前福井の松平春嶽が主導し、当初、会議は順調な滑り出しを見せていました。幕府を代表する立場にある一橋慶喜も開国方針を採用することに反対しないものと考えられていたからです。
ですが会議の雲行きは次第に怪しくなってきます。春嶽、久光、山内容堂、伊達宗城の四参与は慶喜の煮え切らぬ態度に疑念を抱き始めます。将軍も上洛してから何日も経つというのに政治を一新するために開催された会議は何ら新たな発令をすることもなく、空しく日々が過ぎていくのみであったからです。
こうした状況を打開するため四参与は慶喜に対し建白書を提出しました(2月11日)。
幕政がこれまでの古い習慣やしきたりに従うばかりで一向に改めないなら、「上下離心、天下再び土崩瓦解、大事去り、」…(中略)…、将軍が再上洛したことも諸大名が周旋したことも画餅となり、…「天下後世までの笑と相成るべきは顕然のこと」との激烈な文言が建白書には認められ、この会議に賭ける四参与の強い想いが伝わってきます。
【 慶喜の変節 】
参与会議が暗礁に乗り上げたのは、「横浜鎖港問題」を巡って幕府代表する立場にあった慶喜と四参与の間で激しい意見対立が生じたためです。春嶽と久光は開国論を主張し、宗城もその主張に同調しました。ところが慶喜は反対に横浜を鎖港すべしと言い出したのです。慶喜も同調するものとばかり考えていた参与たちは、あっけにとられるしかありませんでした。明らかに慶喜は変節したからです。
ではどうして開国に同意していた慶喜が突如、横浜鎖港を主張したのでしょうか。
慶喜はこの会議に幕府代表という立場で参加しています。ということは慶喜の主張内容は幕府側の考えを表明したものとならざるを得ません。そのため慶喜は会議に臨むに当たり老中たちと幕府の考えを擦り合わせています。
この時の経緯について慶喜は、明治40年代に談話で話しています。
この度、将軍家茂と一緒に上洛した老中たちは、慶喜の考えとはまったく違う方針を立てていました(第126話)。幕府は将軍上洛前に開国ではなく鎖国を方針とすることを江戸で決定していたのです。
慶喜はもはや鎖港を止め開港するしかないと考えていましたから、江戸から上洛した老中酒井忠績(ただしげ)、水野忠精(ただきよ)の二人から横浜鎖港の方針を伝えられると異議を唱えました。
(左または上:水野忠精、右または下:酒井忠績)
老中たちから慶喜はこう聞かされます。
「今度ご上洛になれば、必ず薩州が開国説を立てる。この前のご上洛には長州に攘夷の事で迫られ、今度行って、また薩州の開国の方に附くということになって見ると幕府というものは少しも一定の見識がないことになる。」だから今度は「容易に薩州の開国説に従うことにはならぬ」というのです。上洛の度に諸藩の主張を受け入れ、方針を変えるようでは幕府の面目が立たなくなる。それゆえ薩摩の主張には従えないと江戸で将軍と共に決定してきたというのです。
【功を奏さなかった慶喜の老中への説得】
老中たちから幕府の方針を聞かされた慶喜は反論します。
「私は(薩摩の開国説に)同意したのだ。誠に御尤(ごもっと)もだ。出来ない攘夷をするの、出来ない鎖港をするのと言って、実は朝廷を欺くようなことになる、それよりはもう国のために開く方が宜しいという説に同意したのだ。」
そこで慶喜は酒井と水野の二人に薩摩の主張が尤もだからもはや攘夷も鎖港も止めて開国という方針で行こうと説得しますが、聞き入れられません。老中たちはどうしても薩摩の主張に従うというならわれわれ両名は辞職するしかないとまで言い張ります。なおも慶喜は頑張って説得に当たったようですが、応じません。そこまで言うのなら上様のお考えを伺おうと確かめたところ、将軍家茂からも老中と同意見だと返答されてしまいます。後見職にある慶喜が将軍の意向を知ったからには二人の老中が辞めてしまう事態は何としても避けねばなりません。ついに慶喜が折れ幕府の方針に従うことにしたのです。
幕府は、このままでは参与会議に政治の主導権を握られてしまいかねないことに強い警戒感を募らせていました。従来通り幕府が諸藩の上に立つ政治を続けるためには朝廷から改めて政務一任を取り付けておく必要があると考えた幕府は、攘夷の旗を降ろそうとしない孝明天皇に気に入られそうな策を講じています。前年12月、幕府が横浜鎖港談判のための使節をフランス軍艦で本国に向かわせたのはそのためです。
もしこの時、幕府が開国に舵を切る決断をしていたらその後の歴史の流れは大きく変わっていたはずです。ですが、この頃の幕閣らにはこの国の未来についてのビジョンを描き、諸藩と協力して共に国難を克服しようとする姿勢は全く見られません。それどころか雄藩の抬頭を許さずいかに幕府の立場を守るかに汲々とするばかりでした。
とはいえ、当時の幕閣のすべてが薩摩の主張を退けようと考えていたわけではありません。老中の一人板倉勝静(かつきよ)は、江戸で評議した際には、「何でも薩州の言うことを聴くなということを決定して行った訳ではない。尤もなことは聴かなければならぬ、それを一も二もなく、何でも薩州の言うことは聴かぬぞと取っては困る」と感想を洩らしています。慶喜は後日、この間の経緯を伝えられた板倉がひどく歎息していたことを知ったようです。歴史にイフ は禁物ですが、上洛した老中の中に板倉が加わっていたら今少し違った展開になっていたかもしれません。
さて本日はここまでといたしましょう。少し長くなってしまいましたが、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
・「勝海舟全集18(海舟日記Ⅰ)」 勁草書房 電子書籍版
・「昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談」 平凡社 東洋文庫 電子書籍版
・「続再夢紀事、第二」 国立国会図書館デジタルコレクション
・「徳川慶喜公伝 巻6」国立国会図書館デジタルコレクション
写真:ウィキペディアより