こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

緊急事態宣言が出され、世情が騒然としてきた時期にこうして海舟ブログを書き、発信することにどのような意義があるのか、と考えています。今すぐ何かのお役に立てることは何一つありません。

ただ現代も過去からの歴史の大きな流れの先に存在しています。先人たちは己に降りかかった難事にひるむことなく何としても生き抜くのだという覚悟を持ち未来を切り開いてきました。

そうした想いと行為の積み重ねの上に現代があります。当たり前過ぎることですが、こんな時にこそそのことを思い起こしてもらう機会を提供することにはきっと意義があると信じ、今回も投稿させていただきます。

 

 

【 果たされなかった別命 】

 

前回の続きです。

この度の長崎出張で勝は幕府からもう一つの任務を帯びていました。

別の任務というのは諸外国との交渉が済み次第、「対州表へ渡海いたし、探索方行き届き候様…」、つまり対馬に渡り朝鮮の様子を探るようにとの命令でした。

勝が龍馬ら門弟を神戸から連れてきた目的は、彼らに長崎の地を見せることもその一つだったのでしょうが、恐らくこの任務を果たす上で門弟たちの手助けを必要としたのでしょう。

前年にも勝は同様の命を受けていましたが、この時は、将軍家茂を上方から船で江戸に帰府させる仕事が生じたため、果たすことができませんでした。東アジア三国連合構想(第116話)を胸に秘める勝としては前年悔しい思いをしただけに、2回目のチャンスとなる今回は何としても実現したかったはずです。この時の勝は、その胸に門弟たちの力を借りてでも本格的な探索を何としてもやろうとする意思を強く固めていたに違いありません。

ですが、またしてもその夢は叶いませんでした。というのは3月初め、京の老中から「長崎表御用済み次第、早々上京」するようにという新たな帰京命令が届いたからです。 

下関砲撃を当面、回避する交渉に成功した勝は、ポルスブルックから得た回答を京の幕閣に報告するため4月4日(元治元年、1864年)、長崎を出立しました。

 

 

【小楠から届いた「海軍問答書」】

 

勝が長崎滞在中だった3月23日、肥後藩士の来訪を受け、横井小楠が書いた「海軍問答書」を受け取っています。

先に坂本龍馬が勝の命により小楠を訪れています。その際に小楠が龍馬と談じ、海軍論にも話が及んだのでしょう。龍馬からの質問に答え、議論を交わした内容を小楠なりに改めて整理し文章化してみたものを勝に届けさせました。  

 

この問答書では、国を護るための海軍が有すべき機能を備えた軍事組織とは何かを論じるというよりは、思想家横井小楠が海軍の本来あるべき姿を論じ議論として集大成してみたという性格が色濃く出ています。また巨額の費用を必要とする海軍建設の捻出方法について小楠独自の提案も行っています。

 

 

神戸海軍操練所は、勝が将軍家茂に直訴してその英断により設立が許可されたことを小楠自身もよく知っています。ですが、ここではあえて同所が「天朝・幕府」から「兵庫に於いて海軍を起こすの命令」が出されたものであるとの立場を取ります。そして「兵庫は大坂の咽喉(のど)にて本邦第一の要港なれば海軍場には至極の形勢を得たりと言うべし」とその意義を認めています。その上でさらに「維新の令」を出して天下に大綱を布告すべしと主張しています。

 

 

(横井小楠)

 

 

 

大綱の内容を要約するとこうなります。

まず「総督官に海軍の全権」を付与し、「厳に有司文法の牽制を禁ず」とあります。つまり「維新の令」により「天朝・幕府」に属する海軍となった海軍は単なる幕府海軍ではないため、「総督官」は幕府に所属しません。したがって幕命に従う必要はないことになります。

また志のある訓練生を集め、修行の費用は官費で賄い、彼らを長崎に出張させて、西洋から呼び迎えた海軍教官らにより三年間の伝習教育を施させる、としています。生まれたてのわが海軍にはまだ欧米と戦えるだけの戦闘力がないことを小楠は指摘しているのです。

 

職役は才能があり技能に優れた者を任じ、身分が低い者であっても能力さえあるなら「一艦の長、一軍の将」に任命し、身分が高くても能力が備わっていない者は任用しないと能力重視・適材適所の人材活用方針を明らかにします。

また小楠は、「海外に乗り出し各国を巡観」し長所を取り入れ、わが邦の短所を補えば十年内に外夷を恐れる必要もない力をつけるに至ると確信し、「非常聡明の人傑輩出」し、世界が「我が仁義の風に仰」ぎ見る人材で構成された集団としての海軍にまで押し上げなくてはならないと主張します。

 

「一致の海軍は本なり、天下の海軍は末なり」

 

この言い回しは少しわかりにくい表現ですが、この文言の直前に「天下列藩は如何」という問答のタイトルがあることからこういう意味と解釈されます。

つまり神戸海軍操練所を基地として建設される海軍は幕府諸藩による「共和一致」の理念を有する「本」としての海軍であらねばならず、天下にある列藩の海軍がこの理念を共有しないなら「末」になってしまう。まずは神戸にある海軍が根本として「強盛」になることが天下の海軍が一つにまとまることにつながるという思想を読み取ることができます。

 

 

【 新規事業による資金調達 】

 

また海軍づくりの莫大な費用を捻出する方法については小楠独自の考えを展開しています。小楠は諸藩の財政が疲弊していることを知り抜いており、そのような状況で費用負担を求めても農民や商人を苦しめることになるだけだと考えていました。そこで二段構えで現実的な資金手当ての方策を唱えます。

まず幕府と諸藩に一万石について年間百両を均等に課します。次に拠出された課金を基金として事業を起こし運用することで利益を上げ、資金を確保するというものです。事業というのは、①銅鉱を開く、②鉄山を開く、③木材の運用、のつです。

 

当時、国内には銅鉱が豊富にありましたが、銅の国内での取引価格は安く据え置かれていました。小楠は、これを活用し適正な価格に引き上げて海外と取引を行えば生産者に多大な利益が入り、資金手当てが容易になると見込んだのです。また鉄や木材でも同様に工夫次第でビジネスとして成算が立てば諸藩に過大な負担を求めることがなくなり、農民・商人にも迷惑を掛けずに済むと考えていました。

こうした事業により海軍の費用を賄うことができれば、長崎に造船所を建設し自前の軍艦をつくり出すことも可能になります。そうなれば高額の代金を支払って外国から軍艦を購入する必要もなくなります。

随分と雄大な構想ですが、こうした小楠の考えは「公共の政」を海軍建設にも活かし、国内統一を図ろうとする政治的信条の現れであり、小楠の狙いもそこにあったというべきでしょう。

 

 

【龍馬、再び小楠の許へ】

 

4月6日、勝とその一行は船で渡海し熊本に到着しています。ここで勝は再び龍馬を沼山津に閑居する横井小楠の許に遣わしています。

小楠の依頼により、甥(兄の子)の横井佐平太、大平の兄弟に神戸で海軍教育を受けさせることになり、龍馬を迎えに遣り同行させることにしたのです。

  

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

 ・「横井小楠」 松浦 玲 ちくま学芸文庫

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集18(海舟日記Ⅰ)」 勁草書房 電子書籍版

 ・「小楠遺稿」国立国会図書館デジタルコレクション『海軍問答書』

  写真:ウィキペディア「横井小楠」より