こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 5年ぶりの長崎再訪 】

 

前回の続きです。

勝は長崎への出張準備中の2月7日(文久四年、同年2月20日、元治元年と改元)、神戸を留守にするため海軍操練所の件につき老中水野忠精(みずの ただきよ)に意見書を提出しました。

同書の提案には、操練所がほぼ竣工したこと、同所の頭取に肥田浜五郎とし、佐藤与之助らの諸藩士には出役を命じ幕府から扶持を給付すること、摂海警備のために観光丸、黒龍丸を当てることなどを具申しています。海軍操練所の発足を控えた大事な時期に神戸を離れなくてはならないため、同所の本格的な稼働に向け周到な手配りを勝がしようとしていたことがうかがえます。

 

今回の出張で勝は、別の任務を果たす目的があり総勢14名の門弟と共に長崎に向かっています。坂本龍馬もそのメンバーの一人でした。また勝の役目を見届けるための目付として能勢金之助が同行しています。

同月14日、兵庫を出航した船は豊後佐賀関に入り、そこからは陸路で長崎を目指します。雄大な阿蘇山を視野に入れつつ九州を横断。熊本に到着したのは同月20日のこと。勝はここで龍馬を前年福井から熊本に帰っていた横井小楠の許に遣っています。小楠と面識のある龍馬を派遣する目的は、昨今の情勢と神戸海軍操練所の現状を報告させること、また福井藩を去ることになった事情を直接小楠自身から聞き出すことにあったのでしょう。

 

 

(幕末の長崎 (文久元年、1861年)) 

 

 

勝ら一行が長崎に着いたのは元治元年(1864年)2月23日です。

長崎は勝がかつてオランダ海軍から海軍伝習を受けた思い出の地です。今回の再訪は、伝習を終えて江戸に戻った安政六年(1859年)1月以来、5年ぶりのこと。勝にとっては忘れることができない地であり、懐かしい顔ぶれが多く住む処です。ですが今の勝にそのような感傷に浸っている暇はありませんでした。

 

 

【 長州藩、窮状を勝に訴える 】

 

勝が長崎に到着したとき外国船の姿はまだなく、しばらくこの地で待機することになりました。その間に、長州人が勝の命を狙うため長崎にやって来ているという情報があるので彼らから面会を求められても会わないようにというアドバイスを勝は友人から受けています。ですが長州人から面会の申し出があると勝は構うことなく同月28日、長州藩士四人と会見しています。

この日の勝の日記には、「我が政府の御意、かつ宇内(うだい、世界の意)の形勢を説」いたところ、長州人たちは「承服」し、藩に戻りこれを藩主父子に報告すると言って帰ったと短く記述するのみです。

 

8・18政変以降、京を追われ天下の憎まれ役となった長州藩には、これまで自藩の立場を弁明する機会がありませんでした。この度、幕府軍艦奉行並の勝が長崎に来ることを知り、何としても勝に会い長州の立場を伝えねばと考えたのでしょう。

面会の翌日、勝は京の老中宛てに長文の書簡を送っています。その中で勝が述べていることを要約すると次の通りです。

 

長州人たちは、藩主父子には幕府に対しいささかも異存などなく、下関の船の通航の妨げとなることは決して行わないと申し出ている。

長州人の気質として愚直過ぎるところがあり、長州藩に対する処置が彼らをさらに追いつめることになれば窮鼠にもなりかねない様子が見える。

思うに、長州人は元々、勇はあっても頑固な田舎者で一途に攘夷に及ばなくてはと思い込んでしまったのは、実は憐れむべきこと。天下国家の為になると信じる者の行為が却って国家に危機を招く結果になったのは、攘夷派の過激な輩たちの視野が狭いために起きたこと。彼らがわが国の現状を知り、外国の事を自ら知ろうとする見識を持たずにいたことが誤った一歩を踏み出すことになってしまった。そのため今に至って藩内に大きな弊害が生じ、難儀な状態に陥ってしまっている。

今やこうした事情を訴えるところもないという気の毒千万な状態にあると勝は長州の立場に深く同情し理解を示しています。

 

また海軍について、「我が海軍に於いて興起の妨げ」となることを申すようなら「仇敵」として扱うことになると伝えたところ、長州側からは、決してそのようなつもりがなく、今後は「藩内日本船を廃し海局を起」こすと答えたといいます。

そこで勝は藩主父子を京に呼び出し、弁明の機会を与え寛大な処置とすることを求める言上を在京の老中に行っています。

 

この時期の長州藩は幕府から激しい憎悪の念を持たれていました。同藩の攘夷運動により幕府が振り回され、永く苦しめられたためです。ですが勝自身には長州を排除しようとする考えが全くなかったことはこの手紙でも明らかです。8・18政変以降も勝が幕府と雄藩の連合政権や「一大共有の海局」構想に長州を雄藩の一つとして含めようと考えていたことがわかります。こうしたところにも勝海舟が志向する国内一致への道を模索する考えと精神をうかがうことができるのです。

 

 

【 頭上の一針 】

 

今回の勝の任務は、前年、長州藩が行った砲撃に対して四か国が報復を計画していたため、その攻撃を延期してもらえるよう各国から了解を取り付けることでした。

勝は長崎滞在中、英、米、蘭の各領事と会見し交渉を行っています。特に英、蘭人は、海軍伝習所時代に何度も顔を突き合わせた「我がかねての知己、海外の友」たちでした。彼らに出会ったところ皆、勝の話に熱心に耳を傾けてくれました。中でもオランダ総領事ポルスブルックとは3月下旬から4月にかけて何度も会い、長州問題について協議しています。

4月2日、勝はポルスブルックから正式に攻撃延期の確報を得ました。各国の軍艦差し向けについては今後二ヵ月間猶予するので、関門海峡の封鎖を含む長州問題について日本側で解決を図り、その結果を二か月後に返答するよう求められました。その間、横浜に滞在し幕府側の処置を見ようというのです。

 

勝が交渉に当たっていたある日、オランダの提督がもらした言葉は勝の記憶に深く刻まれるものとなりました。

亜細亜中、日本の称すべきは、国人相喰はざるにあり他州は皆相闘争し、終に邦内の擾乱と成る」と。

アジアでは同じ国民同士の間で争い騒乱が続き、国力が衰えてしまうが、日本人はそのような愚かな行為はしないようだと褒めてくれたというのです。

国内の政情を知る勝には「此の言、正に頭上の一針と何とも耳の痛い言葉として響いたのでした

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集2 書簡と建言」 講談社

 ・「勝海舟全集18(海舟日記Ⅰ)」 勁草書房 電子書籍版

 

写真:東京都写真美術館開催の展覧会『写真発祥地の原風景 長崎』(2018年3月6日~5月6日)で展示された「長崎パノラマ」(部分)1861年(文久元年)