こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

少し投稿の間隔が空きましたが、いかがお過ごしでしょうか。

この2、3週間でコロナウィルス感染による影響があらゆる方面に一気に広がりました。学校休校や各イベント中止など自粛ムード一色になり、売上が急激に落ち込むなど経済活動に暗い影を落としています。早い時期の収束を願うばかりですが、まずは今自分にできるマスク着用や手洗いなどを日々面倒がらずにマメに行い、感染しないための行為を積み重ねていくしかありません。それが感染を広げないことにつながります。不安をあおる情報が次々と入ってく毎日ですが、こういうときこそ目先のことに目を奪われないように冷静に見極めた上で何を行動し、また行動しないのかが大事なのだと思います。

さて海舟ブログです。しばらく投稿をしていなかった期間も何人もの方にこれまでに書いた当ブログを訪問いただきました。本当に嬉しく有難いことと感謝しています。なお今回の投稿は再開ではなく、当面不定期な投稿であることをあらかじめご承知おきください。

 

 

【 長崎出張を命じられた勝 】

 

さて前回、幕府諸藩の連合艦隊で将軍家茂の海路上洛の任務を果たし終えた(文久四年(1864年)1月8日、大坂着)勝は、海軍振興のための構想を建白書にして提出する一方、参与会議に大きな期待をしていたことをお話しました。

この頃、勝は主に神戸にいました。その勝の許に呼び出しがあり、勝は京の二条城に向かいます。

2月5日、登城した勝は御用部屋で摂海防衛と神戸海軍操練所の経営を委任する旨閣老から言い渡されます。同じ日、勝は長崎行きを命じられています。前年、長州藩が行った砲撃に対する報復のため近くフランスが下関に軍艦を差し向け、攻撃するとの風聞があり、それを阻止するための交渉役として勝が派遣されることになりました。

勝の日記によれば、この命令は、松平春嶽、島津久光、伊達宗城らの参与と老中たち同席の場で、一橋慶喜から勝に対し直接行われたとあります。

 

 

(二条城 二の丸御殿)

 

 

この時期、参与会議は微妙な状態にありました。勝がこの会議にいかに大きな期待を抱いていたかは、すでにお話した通りです。挙国一致の国づくりに向けた幕府と雄藩による連合政権が誕生する絶好の機会がようやく到来したからです。勝の海軍構想もこの新たな政治体制の下で実現されて初めて大きな意義を持つことになります。

つまり勝が長崎に派遣されるこの時期は、参与会議の未来が左右されかねないまさに分かれ目ともいうべき微妙な時期でした。旅支度を始めた勝の胸には政局の前途に対する大きな不安が渦まいていました。

 

元々、参与会議は薩摩藩主導の下に発足しました。薩英戦争以降、薩摩は藩を挙げて朝廷に対し従来の方針である鎖港と攘夷の撤回を求めることにしました。攘夷が不可能とわかった今、積極的な開国により交易を行い諸外国に学び、先進の技術や制度などを取り入れていく以外にこの国の内外の危機を克服する道はないと考えたからです。

久光の考えに春嶽も同意しました。こうして先に上京していた久光からの上洛の呼びかけに応じた有力諸侯と慶喜らが京に集まりました。春嶽らの考えでは、近く発足させる参与会議は各参与が朝議(朝廷の会議)に参加して国の最高方針を決め(最高意思決定機関)、その下に執行機関としての幕府が存在するというものでした。

当初、薩摩の方針は大きな抵抗もなく受け入れられるものと考えられていました。理由の一つは、参与会議のメンバーはいずれも開国派で開明的な考えの持ち主ばかりであったからです。さらに前年12月に春嶽が慶喜に参与会議を創設し、今後定例的に開催することにつき意見を求めた時には、賛同すると答えています。慶喜も開国方針に異存がなかったということでしょう。

 

 

【暗雲立ち込め始めた参与会議】

 

当初こそ順調な滑り出しを見せた参与会議でしたが、勝が将軍家茂と江戸の老中たちを上方に連れて来た頃から雲行きが怪しくなり始めました。

慶喜は幕府代表という立場でこの会議に参加していました。一方、将軍を補佐する老中たちは江戸ですでに横浜鎖港を決めてきており、江戸の幕閣と慶喜の間にはその考えに大きな隔たりがあったのです

江戸の幕府内には今後も朝廷から政務一任を取り付けておこうとする勢力がいました。これまで通り幕府による政治支配を続けることを願う彼らは、朝廷に気に入れられる策を講じようします。そこで思いついたのが、攘夷実行の代わりに鎖港のための交渉使節を相手国の本国に送ることでした。幕府のこの考えにフランスが応じました。江戸の幕閣には鎖国を強く願う孝明天皇の意向に沿う努力を幕府が行っていることを印象づける狙いがあったのでしょう。

 

こうした動きを耳にした勝は日記にこのように書き留めています。

「参与の方たちと江戸の幕閣たちの関係はうまくいっているわけではないが、これまでは穏やかであったようだ。…(中略)…。だが上様の上洛があってからは、江戸で鎖港を説く者がおり、そのため議論が定まらない。幕府方に決断する者がなく、諸侯たちも互いに譲り合っていて結論が出ない。そんなことから俗説が興り、…奸吏らがつまらぬことを言い始める」、と前途に暗雲が立ち込めてきた気配を察していました。

さらに「未だ真に天下の大成を知らず、因循無事を好むの嵐、捨すること能わず。(ひそか)に隠微の事実を聞きて空しく切歯するのみ」とその心情を吐露しています。

 

今回の長崎行きには、下関砲撃を阻止するための四か国との交渉とは別の任務も勝に与えられていました。そのことは改めてお話しするとして、この時期に勝が京坂の地を離れることにはどのような意味があったのでしょうか。

元々、徳川幕府においては外国との交渉窓口は長崎に限られていましたから、幕府役人から長崎に回航するように指示を受けた外交官らとの交渉は長崎奉行が行うことになります。ですから軍艦奉行並の勝に外国との交渉の仕事を命じるのは少し違和感があります。そうなると今回の任務にはやはり何か別の政治的な意図があるような氣がしてきます。

参与会議に積極的な意義を認めていた勝が、本来の職務とは異なる任務を突如申し付けられ、京を離れることになったのですから何か裏があると考えるのが自然です。しかもその命令者は一橋慶喜です。慶喜は勝が松平春嶽と懇意であることを承知しています。そのため慶喜の命には、春嶽と政治思想を共有する勝を京坂の地から遠ざける意図があったのではないかという疑惑が浮かんできます。

参与会議の行く末に大きな不安を抱きながら勝が長崎に向け兵庫を出航したのは、2月14日のことでした。

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

 ・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

 ・「大久保利通」 毛利敏彦 中公新書

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 写真:ウィキペディア「二条城」より