こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
【 春嶽と久光の会談 】
松平春嶽が先に無断で越前に帰国した罪が許され、再び入京したのは文久三年10月18日のことでした。春嶽の上京を待っていた薩摩の島津久光は翌19日早速、春嶽の宿所(東本願寺学林)を尋ね今後の方針について話し合いました。「皇国の国是を確定せられるべき一大好機」(続再夢紀事)であるので、雄藩の有力諸侯が集まり一橋慶喜も呼んで朝廷と幕府にこれまでの考えを改めさせようとする方針で両者の意見が一致しました。
8・18政変後、朝廷は尊攘派勢力の追放に成功しますが、クーデター実行後の政局を主導するだけの政治的能力はなく、久光が中心となって賢明諸侯の合議機関設立により政局を安定させようとする気運が生まれました。こうした動きは、公武合体派の前藩主たちが朝廷の参与に就任し、翌年に開催される「参予会議」という会議体の成立につながっていきます。
【 勝、春嶽の政治姿勢を問う 】
越前福井藩の幕末期の史料「続再夢紀事」の文久三年の項には、同年10月20日、勝が春嶽を訪ねて会談していることが記録されています。この時、勝は春嶽がこれまで主張してきた議論に何か変化が生じたのかと質問を投げかけました。福井藩の政変の事情に明るくない勝にすれば、改革を後退させる考えが春嶽の中に生まれたのではないかという疑いがあり、そのことを明らかにしたかったのでしょう。
春嶽は重臣たちを退けたのは、「拠(よんどころ)なき事情によるものであり、考えが変わったわけではないと説明し、それを聴いた勝は了解して退出したとあります。
勝の日記では春嶽と会ったのは前日19日となっています。恐らくこれは勝の日付記載ミスで実際には20日が正しいようです(※)。
日記には、政変による春嶽の議論への影響については触れられていません。代わりに当今の形勢がこうなったからには春嶽に「真に御墳発」を期待すること。また神戸海軍操練所と海軍の事については、藩士と民を問わず全国から広く人材を集め、その者の器量に応じて現場のリーダーに据え、家柄や出身にとらわれることなく学術ある者を募り、「皇国興起の一大海局」を目指すことが記されています。こうした勝の主張に春嶽は大いに同意したとあります。
同月23日、勝の許に江戸から帰府命令が届きます。急ぎ戻ることになった勝は他の予定を断り、春嶽の宿所を再び訪ねています。
応接した春嶽は前日、久光が訪問したことを明かし、幕府が薩摩に対して深い疑念を持っているようだが、決して疑うには及ばないと春嶽から幕府に取りなしてもらいたいとの要望があったと話しました。また久光は、鎖港談判を進めるのは甚だよろしくなく、今世界を相手に戦うとなればとてもこの国の国力で及ぶものではないこと。さらにこの問題について同志の諸侯で合議した上で、朝廷へ言上し説くことについては久光自身が尽力する考えであると勝に伝えました。
(左:島津久光 右:松平春嶽)
久光の考えに同意した春嶽は、国家の大事につき将軍が速やかに上洛し、諸侯らと議論をしてまとめあげ、政治を一新する必要があることを勝から閣老に申し伝えるよう要請しました。
これを受け勝は春嶽の要望をすべて承諾し、春嶽には持論の貫徹を期するよう希望しました。勝としては福井の政変により春嶽の政治姿勢にぶれがあるのではないかという懸念があり、くぎを刺しておく必要があったのかもしれません。
【 勝、一橋慶喜に進言 】
その夜、春嶽の宿所を退出した勝は伏見に下り、翌日大坂に着きそこから完成したばかりの神戸の海軍塾に戻りました。翌25日、兵庫から順動丸で江戸に戻る予定でしたが、そこに会津藩の中沢帯刀がやって来て、京都守護職にある松平容保から上京するように依頼がありました。
先に勝は容保に会っています(10月9日)。攘夷主義者の孝明天皇から厚く信頼を寄せられている容保は、8・18政変で手を組んだ薩摩が今回は上京すると開国論を唱え始めたために少なからず困惑していました。目まぐるしい政局の動きに精通している勝に説明を求めたのです。
勝は容保からの呼び出しに応じるため再び京に引き返しています。用件は将軍上洛を容保自ら勝に強く要請するためでした(同月26日)。こうして勝は再度の将軍上洛と参与会議の開催に向けて大きな役割を担うことになりました。
10月28日、兵庫を出港した勝は30日に浦賀に着いたところ蟠龍丸が滞泊中でした。船内には海路で上方に向かおうとする一橋慶喜が乗っていました。勝は慶喜に面会すると早速、京の情勢について語り伝えました。また将軍が速やかに上洛し、諸侯らと会い皇国のために「正大高明の御評議」を行うこと。外様・親藩の区別なく胸襟を開き善きものを受け入れ、共に皇国が盛大となる方針を決定されんことを望むと慶喜に対し進言を行っています。慶喜がどんな思いで聞いていたかはわかりませんが、慶喜に勝の言葉を素直に聞く気持ちなど全く無かったことは後に明らかとなります。
【幕府諸藩による連合艦隊構想】
その後、順動丸を引き渡し、上方へ慶喜を運ぶ手配をした後、江戸に戻った勝が登城したのは11月4日のことです。春嶽と容保の強い意向を受け、また自身もその必要ありと考えていた勝は御用部屋で「将軍上洛の儀」を強く論じました。江戸の幕閣内でもこの度の上洛には応じねばなるまいと判断されていたのでしょう。その夜のうちに勝に対し上洛掛を勤めるべきとの内意がありました。
またこの時期、幕府と諸藩で連合艦隊を組んで海路上洛を行うという構想があり、同じ日、諸藩に対し11月中に品川沖に船を廻すようにという指示が幕府から出されました。「委細の儀」の問い合わせは勝麟太郎までとされたため、勝は一気に忙しくなりました。従うことになった藩は、越前福井、松江、薩摩、芸州広島、土佐、肥前佐賀などの諸藩でした。翌日になると勝の所に各藩から問い合わせが入ってきます。石炭・油類の手配と調達など上洛のための準備に当たらねばなりませんでした。一方、旗艦となる蒸気船の選定も必要になり、金川(神奈川)に出張し、新たにイギリスの蒸気船を半日運転し購入を決めました。将軍が乗船する旗艦は「翔鶴丸」と名付けられました。
さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書
・「徳川慶喜」 松浦 玲 岩波新書
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
・「続再夢紀事、第二」 国立国会図書館デジタルコレクション
写真:島津久光、近代日本人の肖像より 松平春嶽、ウィキペディアより
※記録者としての勝について
松浦玲先生は著作の中で、『海舟日記』について勝には「綿密な記録能力にいささか欠けることがあり日記の日付が他のより客観的な記録と齟齬することが決して稀ではない」と指摘されています。多忙であった勝は、日をさかのぼってまとめて日記を書くことが多かったようです。今取り上げている文久年間について日記で勝の行動を追っていくとこの時期の勝が超多忙であったことは明らかです。江戸と上方の間を何度も船で往復し、幕府関係者だけでなく朝廷、他藩の藩主クラス、要人、藩士に加え、幕府と対立関係にある者を含め実に多くの人に会い、色々な場所で意見交換や具申、書簡のやり取りをしています。職務を果たしながら合間に日々の記録をまめに筆で書き残すのは、いかに勝といえどもとても骨の折れることであったことは想像に難くありません。そのために勝自身の記憶に勘違いや誤りが生じたりしていることも確かなようです。こうした事情から松浦先生は勝の記録者としての能力に懐疑的な態度と慎重な姿勢を取られています。