皆さま、あけましておめでとうございます。
2020年を迎えました。令和になっての初めての新年です。
元旦の空は晴天に恵まれ、穏やかな新年を迎えることができました。皆さまの地域ではいかがだったでしょうか。今年が幸多き一年となりますようお祈りいたします。
さてこれまで当ブログを訪れ、御読みくださった読者の皆様には改めて心から感謝申し上げます。今年で3年目を迎えますが、これからも勝海舟の生涯を自分なりのペースで一話ずつ書き続けてまいります。おつきあいの程、よろしくお願いいたします。
【勝、上方不在中の龍馬の動き】
さて本題に入りましょう。
前回、坂本龍馬が姉の乙女に「日本を今一度せんたく申し候」と書き送った手紙をご紹介しました。この時期、龍馬は持ち前の行動力をいかんなく発揮し、様々な立場にある人物に会いに出かけては意見を戦わせています。
越前藩邸に出入りしていたかと思えば、大坂町奉行所にも出向いています。先に町奉行松平信敏は、勝と共に神戸海軍操練所、造艦所建設のための調査と図面などの提出を命じられています。いわば勝の仕事仲間でしたから龍馬とも面識があったのでしょう。この年5月には町奉行の職に転じました(操練所と造艦所の建設掛は兼務のまま)。その町奉行となった信敏を龍馬が7月に訪ねています。
神戸海軍操練所のことを氣にしつつも江戸を離れられずにいた勝は上方の近況を知るために二通の手紙を書いています。
一通は松平信敏宛のもので、受け取った信敏は勝宛に7月8日付けで返書を発しています。その中で信敏は、龍馬が過日訪ねて来たことを伝えています。このとき勝から海軍塾のことを任されていた佐藤与之助(※1)も龍馬に同道していました。
龍馬は、前回お話した越前福井藩士の村田氏寿と議論した内容を信敏に語ったようです。長州藩に同情した龍馬でしたが、村田との議論を通じて外国船を無差別に打払った長州の行動に問題ありと考えるようになっていました。
もう一通の勝の手紙は、龍馬と与之助の両名宛に書かれた(7月13日付け)もので、「その地の形勢如何」と上方の様子を尋ねています。この手紙を受け取り、長文の返事を寄こしたのは佐藤与之助の方でした。その中で与之助は龍馬の考えと行動をかなり詳細に報告しています。勝はこの返書(7月25日付け)の大方を自身の日記(8月7日)に書き写しています。
与之助の手紙によれば、龍馬は松平信敏に会い、以下のことを論じたといいます。
まず龍馬は幕府が長州を攻めた外国船を横浜で修理したことを抗議しました。また朝廷がただ夷狄を憎み、外国船であればどの国に対してもむやみやたらに打払うのは、諸外国から恨みを買うだけのこと。日本国が衰微するもとになりかねないと批判しました。
こうしたことを防ぐには、「内、直を挙げ、奸を黜(しりぞ)け、清潔の政を施し、賞罰を明らかに」しなければならない。また朝廷が諸外国に対し懇親または仇讎(きゅうしゅう ※2)と扱うかをしっかりと見定めて戦闘に至る命を下すようでなければならない、としました。
さらに龍馬は、摂海監察使として近く明石に視察に来る予定がある四条隆謌(たかうた)ともう一人の公卿に対しその場に出向いて、「異船通行次第」に無差別に打払うという考えに反対し、名義なき戦闘は不可であることを申し上げる予定であると伝えています。
今や龍馬は自らの考えで幕府だけでなく朝廷に対しても是非を問い、批判の目を向けて国事を論じ、政治活動を行う存在にまでに成長していました。
【龍馬の海軍構想】
与之助は、日頃龍馬から聞かされている神戸海軍操練所に関する構想について手紙に認めています。
1)神戸の海軍所は「関西の海局」と位置付ける
2)海軍所の「惣都督(総督)」を朝廷にて選任する
3)集める人材は学問・技術と人柄を基準とし、身分の貴賎は問わない
4)運営費用は関西の諸侯に捻出させることで賄う
(神戸海軍操練所跡碑)
江戸には軍艦操練所がありますが、これは「関東の海局」とし、神戸海軍操練所は「関西の海局」として独自の存在にしようというわけです。しかも朝廷が操練所の総督を人選して配置すればもはやそれは幕府の海軍操練所ではなく、新たな政府の下に置かれた海軍所となります。龍馬はこの構想を朝廷に建白しようと考えており、そして御許容があれば、越前福井に立ち寄った後、江戸に出るつもりであると与之助は勝に知らせてきたのです。
もともと神戸海軍操練所は勝が将軍家茂に直訴し、その英断に基づきその創設が決定し、設立に向けて動いているプロジェクトです。いくら師匠の信任の厚い龍馬でも勝の許しなく、勝手にこの構想を推進することは幕臣としての勝の立場を微妙なものにしてしまう危険性があります。龍馬もそのことに当然氣づいていました。そのためでしょう、与之助の手紙には次の一言が書き加えられていました。
「尤、先生君之迷惑筋に相成り申さず様、精々取扱申すべしとの事」
龍馬は自分の構想が勝先生に迷惑をおかけすることになるかもしれないため、そうならないよう慎重に事を進めると申していると手紙の最後で与之助は報告しているのです。勝はこの一文を自身の日記に写しませんでした。理由は不明です。
「一大共有之海局」は日本国の海軍建設のために勝が掲げたビジョンであり、神戸は勝が唱える日朝中の三国連合構想の拠点です。こうした文脈からすれば、勝の構想は龍馬の夢へとつながり、具体化していくのは必然的な流れとなります。ですが、それは龍馬が土佐藩を脱藩した自由人であったからこそできる発想であったのでしょう。
勝が想定するゴールが龍馬のそれといつか変わらないものになるとしても、幕臣という立場は勝を制約します。それだけに慎重かつ巧妙に進めねばなりません。勝には自身の想いを龍馬のようにストレートに表明できない不自由さがありました。幕府の軍艦奉行並という要職にあった勝に龍馬のような踏み込んだ発言を求めるのは、できない相談です。ただ勝に龍馬の考えを否定する氣持ちがなかったことは確かでしょう。手紙を読んだ勝が目を細めて、「龍馬め、やりおるわい」と呟いたかもしれません。
「青は藍より出でて藍より青し」
この時の勝と龍馬の関係を考えるとき、私の頭の中に浮かぶ言葉です。松浦 玲先生はこの時のことを著作(「坂本龍馬」)の中でこう語っておられます。
「このとき龍馬は麟太郎よりも一歩か数歩、先に出たのである」。
さて本日はここまでといたしましょう。
今回もお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書
・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
※1 佐藤与之助…庄内藩出身で後、幕臣。勝の蘭学塾時代からの門人で長崎海軍伝習にも参加した人物。神戸海軍操練所では幕命により不在の多い勝に代わり運営を任された(第31話、第108話)。
※2 仇讎…あだ、かたきの意
写真:ウィキペディアから
