こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【家茂帰東後の江戸城内の様子】

 

勝が将軍家茂を順動丸に乗せ江戸に向け大坂を出帆したのは6月13日(文久三年)で、16日には品川沖に到着しました。勝にとってはほぼ四か月ぶりの江戸帰還でした。

 

江戸に向かう順動丸の船上で勝は複雑な心境だったでしょう。もとより勝は攘夷論者ではありませんが、「真の憤発」につながるのなら戦うことも可としました(第109話)。ですが今、勝が供をする将軍は一向に攘夷を実行しようとしない江戸の幕府幹部の怠慢を咎め、攘夷を行うと天皇に約束して江戸に帰る途上にあったからです。

 

 

江戸に到着した翌17日、勝は早速登城し、城内の様子について日記にこう記しています。

「関東の諸役、大いに安(とうあん)他日に倍す。又、諸説を聞く。悉く大義に暗し。衆説紛々、有勢者に雷同し、忌(きき)また甚だし。実に歎ずべし。」

勝の目には、上様が朝廷との約束を守るために江戸城に戻られたというのに役人たちは将軍帰還にすっかり安心してしまっているようにしか見えなかったのです。

約束してしまった以上、幕府としてどのように果たすのか思案し算段しなければなりません。なのに誰一人そのことを考えようとしていません。攘夷が不可能ならできないことを改めて朝廷に示すことが責任ある政府の態度というものです。

ですが城内にいる者たちは、何もしないまま目先のことしか頭にない連中ばかり。自分の意見というものがなく、ただ有力者の意見に同調し他人を譏(そし)ることばかり。このような状態に勝は深く嘆くしかありませんでした。

 

勝は軍艦奉行並という役職にありましたから、本来の職務は軍艦奉行の下で海軍建設のための施策を実行し、また軍艦の選定・購入決定を行うことなどです。つまり実務担当者です。攘夷実行をいかに行う、行わないという意思決定に関与できる地位や立場にはありません。

いくらこの国の未来づくりのプランを胸に抱き、実現していく行動力を持ち合わせながらも一人の軍艦奉行並にできることは限られていました。権力は先見力を持たぬ重臣たちに握られていたからです。勝は自分の立場ではどうすることもできない無力さと腹立たしさを感じないわけにはいかない日々の中にいました。

 

 

【龍馬、国事を論じる】

 

江戸に帰った勝は、神戸の海軍所の件を氣にかけながらも江戸を離れることができない日々を過ごしていました。となれば大坂を留守にする間、勝の代わりを果たしてくれる者はあの男しかいません。

この頃、坂本龍馬は何をしていたでしょうか。西に目を転じてみましょう。

 

6月29日、龍馬は京都の越前藩邸の村田氏寿(うじひさ。通称巳三郎)に面会しています。訪問した目的は二つありました。一つは、前月に勝の使者として訪れた福井藩から海軍操練所への資金援助をしてもらったことへの謝礼として騎兵銃一挺を贈ることでした。

もう一つは、国事を論じるためです。前月、長州藩が下関で馬関海峡を通過する外国船(米・仏・蘭)に向かい砲撃を加え、攘夷の口火を切りました。ところが6月初めに米と仏の軍艦による報復攻撃を受けると長州藩はたちまち大敗北を喫しました。藩の軍艦二隻が撃沈され、一隻は大破、砲台は破壊されてしまったのです。

 

 

 

(連合国に占拠された前田砲台)

 

 

龍馬は村田に、「こうした天下の形勢から考察すると、このままでは防長二州(長州藩)は外国のものになってしまう。そうなればこれを挽回するのはとても困難だ。今は傍観している時ではない。談判して外国人を退去させて、国内を整理すべきだ。」と述べ、攘夷を実行したことで苦境にある長州藩に同情する考えを表明しました。

その上でこれを実行するには、関東の俗吏を退けることが肝要だと自分の考えを述べました。そのためには、まず(麟太郎)、大久保(忠寛)の両氏に説いて方針を定め、松平春嶽父子、長岡良之助(肥後藩)それに山内容堂の四人が上京し、「一時にこの大策を挙ぐべしと提案しました。

龍馬の提案を聴いた村田は賛成せずにこう答えます。

「いや条約を締結している国に対し無法に砲撃を行った長州藩こそ過ちを犯したというべきだ」と長州の行動を非難しました。そして談判して謝罪のために償金の支払いを行わなくては、日本は万国から「不義無道の汚名」を負うことになる。ところが朝廷はその長州の行動を認めているのだから、これが最も困難な問題だと主張しました。

 

対して龍馬は、「いや長州は国のため死を決した。その意気は大いに称賛すべきもの。助けてやらねばなるまい」とし、長州の行為は軽挙であり誤りであると認めつつもこの問題より、まずは「幕吏を処置せんと欲す」るので、勝・大久保に越前藩から使いを出してもらえないかと依頼をしています。結局、この日は双方とも意見が対立したままに終わりました。

 

翌7月1日(※)、龍馬は近藤昶(長)次郎と共に再び村田を訪ね、前日に続き議論しています。前日、物別れとなった二人ですが、この日は意見が一致し、以下の結論に達したとあります。

すなわち、①長州のことは天下の公論に委ねる、②外国の事は当然の道理に基づき談判を尽くす、③国内の事は人心の一和を図る、④もし開戦に至らば全国一致して必死を極める、の四つです(『続再夢紀事』から)。

 

 

こうしたことからこの時、龍馬の頭にあったことが浮かび上がってきます。つまり長州問題については公の場で、かたをつけることに同意はする。しかし、それよりも幕府の「俗吏」を排除することが先決であり重要であるとしたのです。

そのために幕府内で勝・大久保の両名をしかるべきに地位に就け、雄藩による諸侯会議を開催し重要問題(長州問題を含め)を討議すべきであると考えていたということです。

この時期の龍馬は思想的にはもはやかつての土佐勤皇党出身の一藩士の域を脱し、雄藩の一つである越前藩の協力を得て政局を動かそうと考える政治感覚を身につけるようになっていました。上方において師である勝不在の穴を埋めるに足る働きが十分にできる存在にまで成長していたことがうかがえます。

 

 

さてこの頃の龍馬が姉の乙女に書いた有名な手紙を紹介して今回のお話を終わることにしましょう。長州と戦った外国船を幕府が修復したことに怒りを表明したものです。

「あきれはてたる事は、その長州でたたかいたる船を、江戸でしふく(修復)」いたし、また長州でたたかい申し候、これ皆姦吏(かんり、幕府の役人のこと)の夷人と内通いたし候ものにて候。…(中略)…姦吏を一事に軍(いくさ)いたし、打殺し、日本を今一度せんたく申し候事にいたすべくとの神願にて候」(6月29日付け)

 

 

本日はここまでといたしましょう。

年内の投稿は今回が最後といたします。皆様、今年も一年間、お読みいただきありがとうございました。来年も引き続きよろしくお願いいたします。 

どうぞ皆さま、良いお年をお迎えください。この後、私は寅さんの新作映画を観に行くことにします。とても楽しみ(^^)/

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書

・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

・「続再夢紀事、第二」 国立国会図書館デジタルコレクション 

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 

  旧暦は29日で終わる月(小の月)と30日で終わる月(大の月)があります(ちなみに31日はありません)。文久三年6月は小の月が晦日となるため、翌日が7月1日となります。

写真: 「下関戦争」:文久三年とその翌年の四国艦隊による砲撃事件を合わせて呼ぶ場合が一般的。ウィキペディアより