こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
12月に入り、今年も早や1か月足らずになりましたね。寒い日が続いています。読者の皆様には風邪など召されませぬようどうそお氣をつけください。
【幕府の無策を嘆く勝】
さて坂本龍馬を福井に派遣した二日後(5月18日)、京都にいた勝を越前福井藩士の中根雪江(松平春嶽の側近)が訪ねて来ます。この時、勝は中根に対し、「神戸に大海軍を興し、国家百年の基業を創むるの決心」であると告げ、海軍塾の資金が不足しているので「一昨日坂本龍馬を貴国に遣わしご相談に及ばせたり」(続再夢紀事)と語っています。
翌19日、再び中根は勝を訪ね、生麦事件の償金のことを尋ねたのに対し、勝は小笠原長行(ながみち)の手で秘密裏に支払われたことを明かし、またその事実を朝廷も認識していると語っています。そして「国内外ともに切迫した情勢にあるのに江戸では老中や重職にある者たちが引き籠って登城せずの状態であるため、将軍様には今しばらく大坂城に滞留いただき、当地で内外に処する方策を確定させるのがよいと建議」したといいます。その上で、「到底救うべからざる勢いゆえ、今日の所は心を傾けて海軍を起こす事にのみ尽し居るなり」と語ったとあります(同)。
こうした内外の危機を目前にしながら何一つ有効な手立てを打つことができない幕府の体たらくを勝は嘆くしかありませんでした。
この日の日記の最後に、「これをおもえば、落涙止めがたく、また憤怒衝髪」と記しました。幕臣でありながら自らが所属する組織に批判の目を向けねばならない矛盾と苦しみを勝はこの頃から強く感じるようになっていました。
【越前福井藩の全国会議構想】
ところで福井藩から勝の海軍塾の運営資金の引き出しに首尾よく成功した坂本龍馬はその後、どうしていたでしょうか。
龍馬がいつ福井から戻ったのかはわかりませんが、記録上、龍馬の名が現れるのは、同年5月27日です。龍馬はこの日、京都の越前藩邸を訪れ、中根雪江(松平春嶽の側近)に会っています。龍馬は中根に、「攘夷の命を奉じて一橋慶喜と水戸藩主徳川慶篤の両名が江戸に戻ったが、実行できずにいるので、国許に引き籠っている春嶽公の考えが行われるべき機会が到来した」として、「早速に上京してご尽力されたい」と申し述べています。
この頃、越前福井藩内には藩を挙げて京に上る計画がありました。悪化の一途を辿るばかりの朝幕の関係を正常化させる必要がありました。ですがこの度の福井藩が企図したのは単に朝幕の関係を取り持つといった類の話ではありません。
京で国家の一大方針を決めるための全国会議を開催する構想を朝廷と幕府の双方に藩の総力を挙げて提案を行うというものです。その会議には外国人代表を招き、将軍や関白だけでなく雄藩の大名や有志も出席してもらい、その前で談判に及ぶという壮大なものでした。無論これほどの構想を描ける人物は、横井小楠をおいて他にいません。
小楠は、混迷した政局を打開するには、国内だけでなく世界に通用する「大道理」を打ち立てなければならず、そのためには大掛かりな構想と仕掛けが必要であると考えていたのです。
龍馬は福井に滞在した際にこうした構想が福井藩内で検討されていることを恐らく小楠から聞かされていたでしょう。福井藩の空気に触れた龍馬が高揚した気分のまま同藩の京都藩邸を訪ね、中根に春嶽の上京を促したといったところでしょう。
龍馬は龍馬なりに慶喜と意見が対立して国許に引き籠ってしまった春嶽を京に連れ出す機会をうかがっていました。政治の流れを変えるためには春嶽に返り咲いてもらわねばならないと考えていたからです。龍馬は師の考えを誰よりも理解し、自らの意思で勝の門人というよりパートナーとしての役割を果たそうとしていました。
【小笠原長行によるクーデター決行】
江戸に戻った慶喜は、幕閣に攘夷実行を命令しますが、同意する者は誰もいません。慶喜にすればこうした事態は想定内のこと。もともと本気で攘夷実行を行うつもりなどなく、皆が従わないからその責めを負って辞めますと言わんばかりに同月14日、将軍後見職の辞表を京都に宛て提出しています。あらかじめ決めていたことを行動に移したまでのことかもしれません。
この頃、江戸の幕閣の間である計画が進行していました。攘夷派のために身動きができずにいる家茂を救済するため長州と一部の公卿などの攘夷派勢力を一掃し、武力で京都を制圧しようという企てです。このクーデターを行う兵を率いる将には小笠原長行が就任することになりました。
(小笠原図書守長行)
江戸の幕閣がこの企てを決断したのは、幕府を窮地に追い詰めるため攘夷実行を押し付ける長州藩とその攘夷派公卿にこれ以上、将軍の心を苦しめる無理難題を突き付けさせまいとする幕吏の家茂への強い想いがあったからでしょう。
先に幕府は英仏両国から攘夷派鎮圧のための軍事的な支援を行う用意があることを告げられていました。生麦事件の件で幕府が賠償金を支払えないのは攘夷派の存在が影響していると両国が認識していたからです。この提案は外国奉行から京都の幕府首脳に報告されましたが、幕府は断っています。ですがこうした提案を歓迎する者たちが江戸の幕府内には根強く残っていました。
幕議でこのクーデター計画の実施が承認されたのは、5月中旬頃と思われます。慶喜もこの方針に同意し、当初は小笠原と共に上坂することになっていました。ところが慶喜は病気を理由に船に乗ることはありませんでした。本当に病気だったかどうかは定かではありません。
小笠原長行は英国から借りた汽船と朝暘丸を含めた5隻に幕兵千数百名を乗船させ、海路で西に向かいました。同月30日に大坂に上陸するとすぐさま京に向かいました。驚いたのは在京の幕府幹部です。小笠原の部隊が淀まで進出すると入京を阻止する使いが次々とやって来ました。こうした説得を押し切ってでも京に上ろうとする小笠原の許へ家茂から上京を見合わせよとの親書が届きます。なおも進もうとしましたが、将軍自ら大坂に下ることになり、ついに小笠原は上京を断念します。クーデターは未発に終わりました。
お話はまだ続きますが、これ以上は長くなり過ぎるので次回としましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「横井小楠」 松浦 玲 ちくま学芸文庫
・「幕末閣僚伝」 徳永真一郎 毎日新聞社
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
・「続再夢紀事、第二」 国立国会図書館デジタルコレクション