こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 神戸海軍操練所の創設 】

 

前回の続きです。

勝は家茂に直談判して江戸にある軍艦操練所とは別に新たに神戸村に海軍操練所をつくり、海軍士官を養成することの必要性を熱く説き、許しを得ました。幕府トップである将軍のお墨付きをもらったわけですから、うるさ方の老中に遠慮することもありません。勝の喜びがいかに大きかったかは想像に難くありません。こうして勝が永年温めてきたビジョンをようやく実現に向けての大きな一歩を踏み出したのでした。

ところで神戸というと港がある国際的な大都市をイメージしてしまいますが、当時の神戸村は現在と想像もつかないほどの小さな漁村に過ぎない地でした。今や国際都市として名を成す現在の神戸の街の発展ぶりを勝が見たら果たして目を丸くするのか、それとも自身の眼力の高さを自慢するのでしょうか。いずれかはわかりませんが、勝がこの地を建設の地として着目し決めたのは京や大坂に単に近接しているという理由だけではありません。そのことについては別の機会に改めてお話します。

 

さて家茂に具申した日の翌日(文久三年4月24日)、勝は「摂州神戸海軍所、造艦所お取建御用、並びに摂海防禦向(ぼうぎょむき)御用」を仰せつけられました。

同月27日には正式に海軍操練所建設の発令があり、「海軍所御入用、並びに稽古入用」として年間三千両が支給されることになりました。併せて勝は神戸村の最寄りの地に勝個人の海軍塾を開いて運営する許可も取り付けています。そのため勝の拝領高の中から五十俵を神戸村での「地方引替(じかたひきか)え」を認めるので委細は勘定奉行と打合せせよとのお達しも出されました。つまり私塾の運営するために勝の知行から蔵米を振り替えて神戸の地で受取ることを許されたのです。私塾の方は勝の裁量ですぐにも始めることはできましたが、神戸海軍操練所(小野浜に建設)が正式に発足するのは、この一年後のことです。

 

 

 

(神戸海軍操練所 平面図)

 

 

 

その間、勝はすでに門人となった者や他の諸藩士はもとより攘夷派浪人や士分以外の者たちも集め、塾生として扱い航海術や他の学問を学ばせようと考えていました。そこには海軍の実物教育を施すことで観念的な攘夷論に固執する若者たちの目を開かせ、目先の情熱に動かされて命知らずの行動に走らせまいとする勝の人間としての想いが強く込められていました

 

 

【「一大共有之海局」の実現に向けて】

 

私塾からのスタートとはいえその延長戦上には、勝なりの雄大な海軍構想がありました。神戸海軍操練所は、将軍家茂の許可を得て開設されるわけですから、幕府に所属する海軍ということになります。ですが江戸にはすでに軍艦操練所がありましたから、将軍のお膝元の海軍は幕府の海軍であることを意味していました。

 

一方、新たに創設する操練所を基地とする海軍を勝は、幕府海軍とは違う組織体系を持つ海軍にしていこうと目論んでいました。つまり江戸の海軍が幕府海軍であるなら、勝が構想する海軍は京都の朝廷や西国諸藩を含み、幕臣だけでなく諸藩の藩士や攘夷派の志士たちも参加する海軍です。すなわち幕府に抵抗する諸藩を抑え込むための徳川の「私」の海軍ではなく、日本国のための「公」の海軍をつくろうとしていた(「一大共有之海局」)のです。そのために神戸海軍操練所の総督を朝廷が任命するというアイデアも温めていました。勝が姉小路公知に積極的に接触したのは、こうした考えがあったからでしょう。

 

 

5月9日、勝が登城(大坂城)すると老中板倉勝静に呼ばれ、朝廷からの三ヵ条の命令書を渡されます。その3つ目には、こう書かれていました。

「製鉄所は長崎に一か所あるが、攘夷のためには堅艦巨砲が必要になる。広大な製鉄所を新たに建設し諸藩へも軍艦や大砲が行き届くようにせよ」というもの。

これに伴い、神戸村に製鉄所建設するための調査を行うようにとの指示が板倉老中から勝と大坂町奉行松平信敏に対しあり、勝の理想は現実化する動きが加速されていきました。

 

この日の海舟日記の記述。

「海軍並びに器械制作の議につき長年国家のために尽くし、姉小路殿にも説いて差し上げたところ、公、英明な見識を持って天皇に上申されたのであろう」と勝は姉小路公知への働きかけが功を奏したと見ていました。続いて「わが微衷(本心)、天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」とその感激と喜びを素直に吐露しています。

 

 

 

【龍馬、2回目の福井行き】

 

海軍教育を受ける弟子を養成する勝塾について幕府から「勝手次第」との許可を取り付けたものの、そのためには先立つものが必要です。私塾の方は幕府からの援助はありません。そこで勝は塾開設のための資金手当てを越前に帰国している松平春嶽に頼ることにしました。勝からおカネを無心する村田氏寿(うじひさ、越前福井藩士)宛ての手紙を託されて越前に向かったのは、今や勝の右腕的存在となった坂本龍馬です。龍馬の福井訪問は前月に続き2回目になります。

龍馬が越前福井に向かったのは、勝の日記を見ると5月16日です。「龍馬子を越前に遣(つかわ)す。…(中略)…(海軍塾の開設の)費用供(そな)わらず、助力を乞わむ為なり」。

 

 

龍馬は京都で勝から福井行きの指示を受けたのですが、この時期の龍馬の考えや想いが色濃く示されている有名な手紙があります。土佐の乙女姉宛てに送られたものです。

「此頃は、天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはい(可愛)がられ候て、先ずきゃくふん(客分)のような者になり申候。」

この頃には龍馬は、門人の域から「客分」という勝のビジョンを実現するパートナーとしての立場に昇格し、勝からそのように遇されていたのでしょう。

「近きうちには大坂より十里あまりの地にて兵庫という所にて、おおきに海軍ををしえ(教え)候所をこしらえ、また四十間五十間もある船をこしらえ、弟子共にも四五百人も諸方よりあつまり候事」と書いています。神戸海軍操練所となる地に四、五百人も本当に集まっていたかどうかはわかりませんが、龍馬が得意顔で乙女姉に筆を振るっている様子が見えるかのようです。

 

 

(坂本龍馬)

 

勝の手足として行動し、海軍建設の仕事に関わることができていることに龍馬はこれまで味わったことがない喜びとやりがいをこの頃、感じていたに違いありません。

 

坂本龍馬にとって勝海舟はまさに『人生のメンター』でした。

 

勝に出会わなければ龍馬のその後の人生と仕事はなく、この国の未来にも大きな影響を与えることはなかったでしょう。そのことを考えると人と人との出会いは誠に不思議なものというほかありません。

 

 

さて本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集9 海軍歴史Ⅱ」 講談社

写真:「神戸海軍操練所平面図」神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズより 「坂本龍馬」ウィキペディアより