こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
【 長州藩士と接触する勝 】
前回の続きです。
イギリスが戦を仕掛けてくるなら戦ってみればいいという過激とも思える主張を勝がしたことを前回お話ししました。敗北することを承知の上の主張です。イギリスを恐れ、尊攘激派による天誅を恐れるばかりで何一つ決められない幕府の役人たちの体たらくに反発しあえて挑発的な主張をしたのでした。
「願わくは怯者をして激しめんとにあり。故に論次これに及ぶ。また歎ずべきなり」とこの時の想いを記しています。
小笠原長行を順動丸で江戸まで送るため待機していた勝ですが、京より小笠原に上京せよとの命があり、3月17日(文久三年)早朝に出立したことを知ります。その後、小笠原は陸路で江戸に向かうことになったため今回の勝の仕事はなくなりました。
同月下旬、勝は長州藩士に2日続けて会っています。志道聞多(しじもんた、後の井上馨)らに会った翌日には桂小五郎(後の木戸孝允)らが訪ねて来ます。今、幕府を苦しめている尊攘派公卿の背後に控えるのは長州藩ですから、長州は今や幕府にとって天敵ともいうべき存在です。普通の幕臣なら会うのを避けようするところですが、挙国一致を目指す考えを持つ勝は尊攘派の長州藩士であろうと構わず接触しています。自身の考えを推し進める目的があったからでしょう。
(志士時代の桂小五郎(左)と志道聞多(右))
彼らに会い、「海軍興起」は「護国の大急務」であるとの持論を説き、後世の国益を考えるならぐずぐずと手をこまねいている場合ではないと強調しました。桂らは勝の考えに同意し、朝廷に長州から奏上することを約束しました。
また同月29日、勝は宇和島に帰国前の伊達宗城(むねなり)に会い、「天下の形勢」について話し合い、見通しがつかない京の情勢の現状について密談しています。
勝は日記に宗城の人物について、
「この人英邁、諸侯中の人物、尤(もっと)も談ずるに足れり」と『幕末の四賢公』の一人と謳われた人物についてこう評しています。
少し前、勝は日記で嘆いています。曰く、「英傑上に出でざれば、終にこの弊止むべからず」と。今の幕府にはこうした人物がいないという思いが宗城に会うことでその思いは一層強くなったのでしょう。
【 龍馬、大久保忠寛に学ぶ 】
3月末から4月にかけて勝は和歌山に出張します。紀州藩から海岸防備のアドバイスを求める依頼があったからです。その出張先の勝の許に坂本龍馬が現れます。
この時、龍馬はすでに勝の周旋のおかげで土佐藩から脱藩の罪が許されており(2月25日)、翌月6日には藩命により安岡金馬らと共に航海術修行を命じられています。こうして今や師となった勝の指示を受けて色々な立場の人物に会いに出かけています。文字通り席を温める暇もなく西へ東へと駆け廻る日々でしたが、この頃は龍馬にとっては充実感に溢れる日々であったでしょう。
勝を紀州まで追いかける前、江戸にいた龍馬は4月2日、前年秋に追放処分を受け第一線を退いた大久保忠寛を訪ねています。龍馬が忠寛に会うのは、恐らくこの時が初めてです。この日、龍馬は忠寛に沢村惣之丞ら四人と一緒に大久保邸に向かいました。勝が忠寛に京の情勢を知らせるために龍馬らを向かわせたたのでしょう。
五人と対面し京の情勢を彼らから聞き及んだ忠寛は深いため息をつくしかありませんでした。忠寛はこの時の様子を横井小楠宛の手紙(4月6日付)の中に認めています。
「来客した中で、坂本龍馬、沢村惣之丞の両名は大道を解することができる人物と見受けられた」。そこで「話中に刺されるかもしれないと覚悟し懐を開いて、公明正大の道はこれ以外にはないという日頃の考えを話したところ、両名だけは手を打つばかりに理解し納得した様子であった」と述べています。
忠寛が斬られるかもしれないと思ったのは、目の前にいる土佐出身の有志たちはかつて攘夷思想にかぶれていた者たちであったからでしょう。ですが今や勝の門弟となり、目の前の人物が師である勝の政治的同志であると知る彼らには目の前の忠寛を斬ろうとする考えはもはやなかったはずです。
五人の土佐出身の有志に忠寛が説いたのは、持論の大開国論(第100話、第101話)です。忠寛が唱えた大開国論について簡単に振り返ると、
・朝廷に攘夷は不可能であり、国策として得策でないことを伝える
・いかに説得しても聞き入れられない場合には、かつての旧領(駿河・遠江・三河)を与る一諸侯に戻る
・その後は朝廷を中心とした新たな国家体制の下で一大名として参加し、真の開国への道を歩む
つまり政権返上論であり、後の大政奉還論につながる考えです。
大久保忠寛が前年11月に免職されたのは、この議論を展開したため幕府内からにらまれ憎まれる存在になってしまったためでした。
龍馬は師の勝から大政奉還論をすでに聞かされていたでしょうから忠寛が語ったことを理解することができたはずです。後にこの政権返上のアイデアは、幕末の混乱が頂点に達した慶応年間における時勢収拾策として龍馬が土佐藩に建白することにより時代が大きく動いていくことになります。
【勝の片腕として行動する龍馬】
龍馬は大久保忠寛から松平春嶽宛ての手紙を託されました。この時点ですでに春嶽は国許の福井に帰ってしまっていましたが、事情を知らない忠寛はまだ京にいると考えていたのでしょう。
翌4月3日、龍馬は順動丸に乗り、上方に向かいます。大坂に着き、勝が和歌山に出張していることを知ると龍馬はその足で勝の宿泊先となる福島屋を訪ねました。そこで一つのエピソードが生まれました。龍馬は当時としては大男であったのですが、そのためか宿の風呂桶を踏み抜いたという言い伝えが残されています。
旅宿で勝と出会い、師弟間でどのような会話が行われたのかはわかりませんが、その後龍馬は師と共に大坂に戻ると、福井に向けて出立します(同月16日)。勝が書いた越前藩士村田氏寿(うじひさ)宛の手紙と忠寛から預かった春嶽宛ての手紙を届けるためでした。翌月に龍馬はもう一度、福井を訪問していますが、この時は勝が龍馬に与えた特命によるものでした。そのことについては次回以降の中でお話しすることにします。
さて本日はここまでとしましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書
・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
写真:桂小五郎 「吉田松陰.com 維新の三傑 木戸孝允」から
志道聞多 ウィキペディアより