こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
今、開催されているラグビー・ワールドカップでの日本選手の活躍に国内は大いに沸いています。何といっても日本が快勝を続けていますから。先日の対アイルランド戦はついに世界2位のラグビー強国に初めて勝利しました。本当に強くなったことを実感しました。
私はまだラグビーのワールドカップが開催される以前からのラグビーファン(観るだけ)ですが、過去のテストマッチ(国と国の代表選手による試合)では日本代表が大差で敗ける試合を何度も見て来ました。その日本が決勝リーグに進出することも決して夢ではなくなりました。そのためには次のサモア戦がとても大事なj試合になりますね。本当に楽しみです。
今、全国から熱い声援を受けて活躍する代表選手らの勇姿を日本ラグビーの発展に貢献され、50歳代で亡くなられた宿沢広朗さんや平尾誠二さんにぜひ見てもらいたかったと思うのは私だけではないはずです。ラグビーの話をすると話が長くなるのでこの辺にしておきましょう。
【勝に出会うまでの龍馬のこと】
さて坂本龍馬が勝に出会う前の話から始めましょう。
文久二年12月5日、龍馬は間崎哲馬、近藤長(昶)次郎と共に越前福井藩の藩邸を訪れ、松平春嶽に面会しています。この時のことは「続再夢紀事」(越前福井藩の記録)に記録されており、「大坂近海の海防策」について語り合ったとされています。
春嶽は時の政治総裁職にある身ですから、脱藩した一藩士が簡単に会える相手ではありません。ではどのようなつながりで会うことになったのでしょうか。
龍馬論の定本ともいうべき『龍馬のすべて』の著者平尾道雄氏によると、「龍馬が謁見することができたのは、桶町道場の千葉定吉の子重太郎が剣術師範として越前藩に知られていたからだ。そのため春嶽は龍馬と重太郎の謁見を許し、二人を勝にも紹介したのである。」とあります。つまり龍馬は先に松平春嶽に会い、その後、春嶽の紹介状をもらい勝を訪ねたことになります。
もともと土佐は長曾我部家の領国で、関ヶ原の合戦では西軍につきました。戦後、家康からの恩賞に預かった山内一豊が掛川から土佐に移封され、領国としました。しかし長曾我部家の旧家臣たちは新領主に素直に従わなかったため、一豊は懐柔することに手を焼かねばなりませんでした。そして苦労の末に、山内家の家臣を上士、長曾我部家の旧家臣を郷士として扱うことにしたのです。土佐藩にはこのような特殊な成立事情があったため、上士と郷士の間では厳しい身分差別が残り、対立は長く続きました。
龍馬は郷士出身の身分でしたから、こうした封建的な制度に矛盾を感じ、憤りを覚える場面は何度もあったはずです。その後、土佐を脱藩した龍馬は尊王攘夷運動に身を投じ、諸藩の尊攘派の志士らと交わることで一層幕府に対して反抗的な思いを持つようになりました。
この頃の龍馬は、攘夷論者ではあってもすでに単純な攘夷論を唱える者たちとは立場を異にしており、国を守るためにはどうすればいいかという問いに対する答えを求めて悩む日々にありました。
この頃、土佐藩を動かしていたのは武市半平太(瑞山-ずいざん)を頭目とする土佐勤王党で、当初龍馬も加わっていました。武市は藩を挙げて勤王運動を展開しようと藩に働きかけますが、時の参政吉田東洋は聞き入れません。東洋と激しく対立した武市は、ついに東洋暗殺指令を出します。こうした動きに納得がいかないものを感じていた龍馬はこの暗殺事件の直前に土佐を脱藩するのです。
(武市半平太)
その後龍馬は九州や京、大坂を遍歴し、やがてかつて剣術修行に明け暮れた江戸を目指します。8月、江戸に着くと龍馬は千葉道場に身を寄せながら日々を過ごします。そんな時期にまず春嶽に会い、次に勝邸を訪ね、勝が描くビジョンにより目を開かせられ勝の門人となるのです。
【龍馬、仲間を集める】
明けて文久三年正月元旦を勝は上方の地で龍馬、近藤長次郎、千葉重太郎らと共に迎えました。この日の海舟日記を見ると、勝は龍馬らを大坂から京都に向かわせたとあります。この頃は攘夷論と開国論が対立し、京都では攘夷派による天誅と称した殺人事件が続き、世情は騒然としていました。今や政治の中心は江戸から京都に移りつつあり、京の情勢について情報収集することは重要な意味を持つようになっていました。そのため勝は門人たちにも指示を与え大坂、京都に、また江戸に派遣しています。
同月9日の日記には、「昨日、土州之者数輩、我門に入る」とあり、龍馬の勧誘により土佐藩士が勝の門人に加わったとあります。土州の者とは、土佐藩士の高松太郎(龍馬の甥)千屋寅之助、望月亀弥太(もちづき かめやた)のことです。高松と千屋は龍馬と同じ土佐勤王党の出身でした。
続く記述は「龍馬子と形勢之事を密議し、其の志を助く」とあります。この記述は少しあいまいで2通りに解釈できます。つまり勝が龍馬と昨今の京・大坂の政情について話し合い、龍馬の志をサポートする。そしてもう一つは、土州の者たちが龍馬と情勢について議論して龍馬の考えに賛同し行動を共にする、とも読めます。
いずれにせよ師の構想に共感した龍馬は、彼らに航海術の必要性を説き、勝の許でともに学ばせようとしていました。日本国の海軍をつくろうとする師の勝の考えに共感し、土佐藩の龍馬の仲間や尊攘派の志士たちに会っては海軍づくりの仲間を集めることを自分の使命と考え、意欲的に行動していました。こうして藩から航海術の修行を命じられた者たちが勝の門下には次々と加わっていきました。
龍馬自身は自分の進むべき道をようやく見出した喜びにあふれていました。
この年の3月20日に龍馬が姉の乙女に宛てて書いた有名な手紙があります。
「今では日本第一の人物勝麟太郎という人の弟子になり、日々かねてより思っていたことに精を出しています。それゆえ四十歳になるころまでは家には帰らないようにするつもりです」
と喜びに満ち溢れた龍馬の心情を正直に吐露しています。龍馬が土佐を脱藩したのは、ちょうど一年前のことです。
ですが今や龍馬は勝の一番弟子として師の指示に従い、西へ東へと持ち前の行動力を発揮していく存在になりつつありました。
さて本日はここまでとしましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書
・「龍馬のすべて」 平尾道雄 久保書店
・「坂本龍馬」 池田敬正 中公新書
・「坂本龍馬 その手紙のおもしろさ」 京都国立博物館
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
写真:幕末ガイド「武市半平太」から