こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

9月に入っても厳しい残暑が続いています。夏バテが出てくる時期ですね。皆様、体調にお氣をつけください。

 

 

【 対立する慶喜と春嶽 】

 

さて前回ご紹介したように、大久保忠寛の「大開国論」は松平春嶽、山内容堂らの一部の開明的な考えの持ち主からは高く支持されました。ですが老中らは全くの空論としか見ておらず、幕府内には忠寛の「大開国論」を快く思っていない者は多くいました。一橋慶喜もその一人でした。

 

慶喜は忠寛の大開国論をどのように思っていたのか。それは明治四十年以降に慶喜を囲んで往時を回想した会の記録(『昔夢会筆記』)の中に見えます。慶喜は前回ご紹介した春嶽の大久保忠寛の発言内容に関する記述に質問にこう答えています。

「越中守(忠寛のこと)がこのような説を唱えたことは知らなかったが、当時はいささか面倒なことがあり、色々な議論があったと思うが、多くは口先ばかりの空論に過ぎなかった」と冷ややかな返答をしています。慶喜は「大開国論」を知らないといい、空論の一つと片づけています。

 

幕府による政治支配体制を維持することしか頭に無い慶喜や老中からすれば、忠寛の考えは過激な危険思想でしかなかったのです。しかも御側御用取次という職務は、将軍と老中の間にあって老中らの審議により決まった政策を上様に説明し裁可を仰ぐ役職にあります。その職務にある家臣が上様のお側近くに仕え、政権返上も辞さないという考えの持ち主であるのは不都合極まりないことでした。もし二十歳にもならない青年将軍が影響を受け、大政を奉還するなどと言い出したら徳川家の一大事。彼らにすれば忠寛は危険極まりない人物ということになります。実際には忠寛は、第14代将軍家茂のお気に入りの家臣の一人だったのですが…。

 

 

(大久保忠寛、後の一翁)

 

 

果たして11月2日(文久二年)、大久保忠寛は出勤差し止めとなります。翌3日、登城した松平春嶽は慶喜から忠寛を他の職務に異動させてはどうかという提案を受けました。理由はというと、忠寛は「俗論家のために忌み嫌われており、暗殺の陰謀まであるとうわさされている」というのです。これを聞いた春嶽は、「俗論家に忌み嫌われているといのは、『越中(忠寛のこと)の越中たる所』で、真に得がたい人物なので上様のお側から遠ざけられることがあってはならない。うわさなど取るに足りないこと」と激しく反発しました。

 

翌四日、慶喜は再び春嶽に、「春嶽殿が越中を贔屓(ひいき)にしているので、多くの役人たちが不平を抱いている。このままでは役向きのことがうまく行われないから早急に越中を異動させた方が良い」と前日の話を蒸し返してきました。

この主張に激しく憤慨した春嶽は慶喜に、

「確かに私が越中を贔屓にしていることには相違ない。(私は)天下の重責を担う身分にあるが、(その自分が)断乎として公正なる行いができる人物を贔屓しないで一体誰を贔屓にせよと言われるのか」

と反論しました。

 

さらに、

「私を捨て去り、公に従わんとする今日なれば広く天下で優れた人物こそ起用しなくてはならない。それなのに越中一人さへ俗吏の言に左右されて転任させようというのは自分の取らざるところである」と語気鋭く主張しました。

ところが、この人事はすでに慶喜と老中筆頭の板倉勝静(かつきよ)の間ですでに決まっており、将軍の許可が下りる手筈も整っていました。そのことを聞いた春嶽は、

「それなら拙者へ相談に及ぶ必要などござらぬではないか」

と怒りながら言い放つしかありませんでした。

 

 

 

【 大久保忠寛の左遷 】

 

こうして大久保忠寛は11月5日、講武所奉行に左遷させられました。板倉老中が発案し慶喜が同意したと言われています。

結局のところ、忠寛が御側御用取次の要職にあったのはわずか4カ月のことでした。同月23日には同奉行職も免職になり、完全に第一線から退かされたのでした。大久保忠寛の存在を疎ましく思っていた慶喜と板倉の姑息な画策により、忠寛は引きずり降ろされたのでした

こうして将軍後見職の慶喜と政事総裁職の春嶽は大久保忠寛の人事を巡って激しく対立することになりました。それは幕府権威の維持強化を図ろうとする一橋慶喜と幕府の「私」を捨て朝廷の下に有力諸藩による「公」論を形成しようとする松平春嶽の政治路線の対立でもありました

 

 

(左:一橋慶喜、右:松平春嶽)

 

 

また慶喜は忠寛のことを

「…越中守は器量こそありたれ、資性偏固にして、事を執るに当り、己が意に合うと合わざるによりて、すこぶる手心を用い、政務を阻碍(害)すること尠(少)なからず。…(中略)…。春嶽は越中守ほどの者はなしと思い込みいたれば、この議に反対してなかなかむつかしかりき」(『昔夢会筆記』)と辛らつに評しています。

 

その頃の忠寛は、横井小楠に学んだ思想に独自で長考に長考を重ねた結果、独特の政治観と強固な信念を抱く政治家としての資質を開花させつつありました。勅使待遇問題や攘夷奉承の件では忠寛と悉く意見が対立した慶喜の脳裏には、忠寛の頑固一徹な風貌と愚直な姿勢に手を焼かされた往時の記憶などが浮かび上がってきたのでしょう。この慶喜の言葉には自身の立場を正当化しようとする意図が見え隠れします。本当に罷免しようとするのであれば、忠寛の職務怠慢や職務遂行能力が不足していることを明らかにすればそれで済むことです。ですが慶喜と板倉はそれができないことを承知していました。ですから暗殺のうわさがあり、役人たちからは不平が出ているという極めて根拠薄弱であいまいな理由しか持ち出すことができなかったのです。決め手に欠き、いかにも取って付けたような事由を並べただけに過ぎません。

ご注意いただきたいのは、先の辛らつな評価を慶喜が語ったのは明治40年代であることです。この時期、当時の関係者の誰もがこの世から去っています。つまり誰も異議も反対も唱えることができません。明らかなことは、慶喜は大久保忠寛という人物を終生嫌っていたということです。

 

後年、慶喜は官軍と交渉する徳川終戦内閣の首班に大久保忠寛を、交渉役に勝海舟を起用することになります。ともに慶喜の政敵です。歴史とは真に不思議なものですね。

 

 

さて本日はここまでとしましょう。

筆が進み長くなってしまいました。にもかかわらず今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

・「横井小楠」 松浦 玲 ちくま学芸文庫

 

写真:大久保忠寛 「幕末ガイド」大久保一翁から

    一橋慶喜 徳川慶喜年表baku幕末年表matuから

    松平春嶽 ウィキペディアから