こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。毎日ホントに暑いですね。連日の猛暑で体調を崩されていないでしょうか。どうか体調にはくれぐれもお氣をつけください。
さて昨年1月から始めた当ブログも今回で第100話を迎えることになりました。色々な読み方があると思いますが、まずはお読みくださっている皆様に心から感謝いたします。
果たして読んでくれる方がいるだろうか。そんな不安から最初の投稿を発信する時にはマウスをつかむ手がこわばってなかなかクリックできなかったことを覚えています(笑)。
100回の投稿(私には奇跡のようなものです)を何とか続けて来られたのは、何と言っても読んでくださる方がいたからです。本当に有難いことです。改めて深く感謝する次第です。
長い時の流れをお伝えする歴史ブログの場合、毎回感動や熱い想いを届けられるわけでなく淡々と語るしかないこともあります。
それだけに面白味に欠けるのでは、文章がわかりづらいかも、こんな書き方で話の中味が伝わるだろうか。毎回そんなことが頭に浮かびます。その意味で感想コメントをいただけると伝わり具合がわかり有難くとても嬉しいです。これからもよろしければお寄せいただけると助かります(^^♪。
これからも一話一話、投稿ギリギリまで頭を悩ませながら書き続けていきます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします(前置きが長くなったため、いつもより長文になることを御容赦ください)。
【浮上した新たな難題】
さて前回は、朝廷に幕府は開国論を説くことで意見がまとまり、その説得役には一橋慶喜を起用するところまでお話しました。ところが慶喜の上京は延期されることになります。新たな勅使を下向させるので慶喜の京都行を延期せよとの知らせが届いたためです。
先に朝廷は慶喜と松平春嶽を後見職と総裁職に就けることに成功しました。ですが最大の願いは攘夷の早期実行にあります。そこで再度幕府に攘夷を督促するための勅使派遣を行うことにしたのです。
選ばれたのは、三条実美(さんじょう さねとみ)と姉小路公知(あねのこうじ きんとも)です。
今回二人の江戸入りを先導したのは薩摩藩ではなく土佐藩でした。画策したのは、土佐勤王党の盟主武市瑞山(たけち ずいざん、通称、半平太)で、藩論を尊王攘夷に転換させ土佐藩を動かした人物です。藩主山内豊範(とよのり)が兵一千を引き連れ、京都を発ったのは10月12日のことです。
今回の要求は、「攘夷の方針を定めて天下に布告し、その期日を奏上せよ」ということでした。つまり将軍自ら上洛していつ攘夷を実行するのかを天皇にご報告申し上げよというのです。
攘夷実行を迫られるだけでも幕府にとっては頭の痛い問題です。ところが朝廷はさらに難題を幕府に吹っ掛けました。幕府にこれまでの勅使を迎えるときの待遇を改め、実をもって迎えよ、つまり天皇の臣である将軍は勅使をもっと手厚く扱えと言ってきたのです。当然、老中たちは猛反発します。従来の慣例通りに勅使を迎えれば良く、待遇改善の必要なしとの態度に終始しました。
それに対し春嶽と小楠は反対の立場を取り、改善することを求めました。これまでの型通りの勅使待遇で押し通そうとすること自体が幕府の「私」の態度の表れであり、現状を改める姿勢がないことを問題視したのです。
【松平春嶽の提案】
慶喜の上京が延期になる前、春嶽は慶喜に対しある提案を行っています。慶喜が唱える「開国論が朝廷に受け入れられない場合には、幕府は断然政権を返上する覚悟を定め、この覚悟をもって人心を鼓舞してみることにしてはどうか」と伝えたのです。
春嶽がこう問いかけたのは、前回の慶喜の発言の中に、「己に幕府をなきものと見て、専ら日本全国の為を謀らんとするなり」という言葉があったからです。意を決した春嶽の提案でしたが慶喜はその場で答えず、返答を保留しました。
慶喜の煮え切らぬ態度に、所詮慶喜の開国論も老中らの「因循(いんじゅん※)の開国」と同じと春嶽はみなしました。
幕府が行うべきは、天皇と朝廷に攘夷が不可能なことを理解させ、世界に自ら進んで交際を求め交易を盛んにすることであると命がけで説得すること。それが受け入れられないなら政権を返上する。すなわち大政奉還の覚悟をもって臨まなくてはならないがそのお覚悟がおありか、と春嶽は慶喜に迫ったのです。
ですが慶喜はそのことに直接答えず、老中たちから政権返上を言い出すのを待つ方が良いとあいまいな回答をしただけでした。
慶喜には政権を返上する覚悟をもって談判する氣持ちがないと見た春嶽は再び登城するのを止め、政事総裁職の辞表を提出しました(10月13日)。
こうして「勅使待遇問題」を契機に幕府内には再び亀裂が生じました。ようやく朝廷への説得方針を開国論一本とすることでまとまりかけた幕府でしたが、再びその方針が揺らいでしまいました。
【大久保忠寛の「大開国論」】
勅使処遇を巡り幕閣の意見が激しく対立していた頃、横井小楠が大久保忠寛の屋敷を訪ねています。小楠は老中首座の板倉勝清が慶喜を味方に引き入れ他の老中らと共に頑なに前例通りと主張するのは、その背後に大久保忠寛がいるせいではないかと疑ったのです。こうした形式問題にも幕府の「私」を押し通そうとする姿勢を小楠は咎めるつもりでした。
ところが話を始めると忠寛はこの件について全く知らずにいました。小楠の話を聞き終えた忠寛は「天皇より仰せ出されたことは遵奉(じゅんぽう)しなくては、開国も真の開国とならない」と怒りを顕わにしました。
そして忠寛は「明日、力を尽くして閣議における私論を打破しよう」と約束し小楠を励ましたのでした。両者は何事も型通りとすることにこだわる頑迷な老中らにただ嘆息をつくしかありませんでした。
(大久保忠寛、後の一翁)
10月20日、忠寛は将軍家茂の命により登城しない春嶽の病氣見舞いのため越前藩邸に赴きました。見舞いが済むと春嶽、小楠、忠寛の三人の話題は自然と政局のことに移りました。
その席で春嶽は忠寛に「攘夷実行の勅諚にいかに対応するべきであろうか」と尋ねました。
口を開いた忠寛はこの時、非常に重大な発言をしています。
「攘夷の勅諚をお受けすることは不可である。…(中略)…この度はどこまでも攘夷は国家のための得策ではないことを主張しなくてはならない。それでも朝廷側がお聞き入れなく攘夷実行を迫られたなら、断然政権を朝廷に奉還し、徳川家は家康公の旧領、駿河・遠江・三河の三国を貰い受けて一諸侯の列に降ればよい。」
と主張したのです。
これは明らかに大政奉還論です。春嶽も先に慶喜に「政権返上の覚悟をもって」という提案をしていますが、忠寛の場合、さらに一歩踏み込んで徳川家が一大名の立場に戻って国に奉公するべきであると言い切ったのです。さすがに春嶽も小楠もそこまでは考えておらず、大きな衝撃を受けました。
横井小楠の「公共の政」の思想を最も深く理解し、また独自に思索を深め、強い信念と共に自らの政治思想にまで高めた人物はこの大久保忠寛をおいて他にありません。しかも忠寛は、幕臣であり、また幕閣の一人として重責を担う立場にありながら、剛直なる人柄と公正無私の思想を徹底することでこうした思想的境地に至ったのでした。
この年から六年後、大政奉還が坂本龍馬の活躍により実現しますが、この頃にそれを口にする者など誰もいません。そんな時期に幕府の幹部であった大久保忠寛が大政奉還を語ったことに大きな意義があるのです。
さて本日はここまでとしましょう。
長文にもかかわらず、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書
・「横井小楠」 松浦 玲 ちくま学芸文庫
写真は「幕末ガイド」大久保一翁から
※因循…何事も古いならわし、方法などに従って、改めようとしないこと。旧例にこだわって改革をしないこと。 (コトバンクより)
《お断り》
筆者の都合により8月はしばらくの間(3週間程度)、夏休みをいただきます。8月下旬に再開する予定ですので何卒ご理解、ご容赦のほどよろしくお願い申し上げます。