こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

【勝、海軍畑に復帰す】

 

文久二年7月3日、大久保忠寛は御側御用取次(おそばごようとりつぎ)役を命じられ、翌4日、同役に転じました。外国奉行兼任のまま大目付に任じられてわずか二カ月後のことです。一年前にはまだ先の大獄で追放処分を受けたままの身の上にあり、前年8月にようやく蕃書調所勤務に返り咲いたばかりの忠寛(ここからは薩摩の大久保一蔵(利通)とまぎらわしいため「忠寛」とします)でした。ですが今や将軍様と老中の間に入り政治上の重要な公文書の取次をする役職にまで昇進したことになります。

 

御側御用取次の仕事を簡単に説明すると、老中が上申する文書を預かり、将軍にその内容を説明し決裁を仰ぎ、その結果を老中に伝える仕事です。とはいえ役目柄、幕府最高の機密文書にも目に触れるわけですから幕政について精通する立場にあります。心得違いをすれば自分の意向を反映させ権力を専横することも可能な役職です。

 

忠寛はこの役職に就いたとき幕府に願い出たことがあります。この行為から大久保忠寛がどんな人物であったかを知ることができます。辞令には「千石高に御加増」とのお達しがあったのですが、忠寛は「本高はもとの五百石のままとし、あとは足高(たしだか)にしていただきたい」と願い出たのです

 

足高というのは、その役職の在任期間中だけ加増を受けるという制度です。五百石の大久保家が千石取りの家格となることは大久保家として名誉なことです。ですが、忠寛は加増を受けるのは自分が役職にある期間だけで良い、役職から離れたら元の五百石で構いませぬと自ら申し出たのです。

こうしたところに彼の幕府官僚としての仕事と役職に対する考え幕臣大久保忠寛の面目躍如たる一面が現われています

 

 

忠寛が御側御用取次に転じた7月4日、同日に勝麟太郎にも新たな辞令が発せられました軍艦操練所頭取に任命されたのです。併せて勝には百俵高に加増と足高五百俵が言い渡されました。

ようやく勝は元の海軍畑の仕事への復帰を果たしたことになります。咸臨丸での帰国後、海軍追放処分に遭って以来、丸二年の月日が経っていました

そして時を同じくして一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁に、また727日には会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職それぞれ就任しています。

 

こうした一連の人事により「文久の改革」が進められていきます。

大久保忠寛や勝の起用人事もその一環です。従来の幕政を継承することにしか頭に無かった板倉勝静、水野忠精(ただきよ)らの老中たちから勝と忠寛の起用という人事話が出ることはまず考えられません。となれば両者の起用は松平春嶽の存在無くしてはあり得なかったはずです。勝の場合、海路による将軍上洛を建白したことが今回の人事に少なからず影響していたことは想像に難くありません。

 

 

【文久の改革の立役者 横井小楠】

 

文久年間のお話を進める上でどうしても語らねばならない人物がいます

横井小楠(よこい しょうなん)という人物です。ご存知でない方が多いと思いますが、実はこの人物、文久の幕政改革において極めて重要な役割を果たします。また勝や大久保忠寛、そして後に登場する坂本龍馬にも多大な思想的影響を与えた人物としても知られています。影響はそれだけに止まりません。幕府の要人はもとより有力藩の藩主から倒幕派の幕末の志士に至るまで政治的立場に関係なくこれほど広く思想的影響を与えた人物はいません。あまり知られていませんが、幕末史を語る上で欠くべからざる巨星的存在です。

 

 

(横井小楠、ウィキペディアより)

 

 

横井小楠は肥後熊本藩の藩士で儒学者です。小楠と越前福井藩との関係は嘉永二年(1849年)まで遡ります。その後、小楠は何度か越前福井藩に招かれたことで双方の関係は深まっていきました。

文久二年(1862年)6月、越前に向かうため熊本を発った小楠は、途中、越前藩の使者に会うと行き先を江戸に転じます。春嶽から江戸への出府を命じられたからです。小楠が江戸の越前藩邸に到着したのは、春嶽が政事総裁職に就任する三日前の7月6日でした。

 

その頃、春嶽は病気と称して(仮病ではなかったようです)出仕を拒否していました。慶喜の後見職を受け入れようとしない頑固な老中たちに春嶽はすっかり嫌気がさしていたのです。この局面を打開するには小楠から知恵を授かるしかないと考えた春嶽は小楠の到着を待っていたのです。

小楠は藩邸に入るとすぐに春嶽の部屋に通されました。翌7日、春嶽は自身の進退と今後どう行動するかを小楠や家老らと協議しました。

小楠は進言しました。春嶽が登城して、これまでの幕府のを捨て政治を改めるように大いに意見すること。またその趣旨が十分に伝わるまで将軍と幕閣に対し主張すること。その上でそれが通るか通らないかによって進退をお決めになるべきと。

 

 

神妙な面持ちで小楠の言葉に耳を傾けていた春嶽はふさぎ込むばかりであった気分がウソのように一気に晴れていくのを感じました。一転してわが意を得たりという表情となった春嶽の晴れ晴れとした顔に接した小楠は春嶽の側近中根雪江(なかね ゆきえ、せっこう)と胸を大きく撫で下ろしました。

こうして名実ともに松平春嶽の政策ブレインとなった横井小楠は老中たちとも議論を重ね、幕閣からも一目置かれる存在となり幕政改革に一役を買う活躍を見せることになります

 

二日後の7月9日、春嶽は登城し正式に政事総裁職に就任しました。老中の反対が強かった慶喜が先に日前の6日に後見職に就き、春嶽が遅くなったのにはこうした事情があったためです。

 

 

さて本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「横井小楠」 松浦 玲 ちくま学芸文庫

・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書