こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【朝廷の意向に抵抗する幕府】

 

前回、一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職にそれぞれ就任したとお話しました(文久二年7月)。両者の役職は将軍を後見し補佐して難局に対処するために島津久光が朝廷を動かして幕府に求めたものです。

しかし幕府はこうした動きがあることを事前に察知していました。京には京都所司代があり、朝廷内の佐幕派の公卿から情報がもたらされていたからです。

 

もともと徳川幕府の政治は譜代大名(※)と旗本が担当することで行われていました。親藩大名(※)はこうした役職に就かず、外様大名(※)は政治に口出すことそのものが許されていません。久光の要求の中に「松平春嶽を大老に」という文言がありましたが、幕府の職制では大老職は臨時に老中の上に置かれる職で、井伊家を始め譜代四家が務める慣例がありました。そのため親藩である春嶽は大老になれないことになります。そこでその代りに政事総裁職と呼ばれる役職を新たに置くことにしたのです。

 

方、将軍後見職に就任するのは慶喜が初代ではありません。前任者がすでにいます。御三卿の一家である田安慶頼(たやす よしより)がその初代を務めました。安政五年、14代将軍に紀州の徳川慶福(よしとみ。後の家茂)が就任しますが、このとき家茂(いえもち)は13歳の少年でした。そのため井伊大老が過去の先例に基づき将軍後見職という臨時の役職を設け、慶頼をその役に任命しています。

 

 

幕府は久光一行が江戸にやって来る二カ月前の文久二年4月に春嶽を幕政参与に命じ、翌5月には田安慶頼の将軍後見職を解任しています。この一連の動きは何を意味するのでしょうか。

 

(松平春嶽)

 

幕府としては松平春嶽にはすでに幕政参与を命じており大老とするには及ばない。また先に将軍後見職を務めた井伊派の田安慶頼を罷免したのは、将軍も17歳となり立派に成長したことでもはや後見の必要もなくなったというのが表向きの理由です。しかも無事役目を果たし終えたという体裁を取るため慶頼の官位を引き上げるということまでしています。後見職が無用であることを朝廷に対し殊更にアッピールしてみせたのです。いかに幕府が朝廷側の言いなりになることを嫌い抵抗しようとしていたかがうかがわれます。ですが結果的には幕府は薩摩に押し切られてしまいました。

 

薩摩藩にとって慶喜を将軍後見職に就けたことがどれほど大きな喜びであったかは、当時の大久保一蔵(後の利通)の日記からうかがい知ることができます。そこには日頃、冷静沈着さを失わず感情を面に出さないことで知られる大久保にはおよそ似つかわしくない大げさな言葉で喜びが記されています。

「数十年苦心焦慮せし事、今更夢の様な心持。皇国の大慶言語に尽くし難き次第なり」

この頃の大久保は、まだ慶喜に大いに期待を持つ一人であったのです。

 

 

【幕府、大久保忠寛を起用】

 

さて幕府側の大久保忠寛(越中守)は、前年の文久元年10月に外国奉行に任命されると翌文久二年5月(4)には外国奉行兼任のまま大目付を命じられます。大目付は役料が三千石で旗本としては最高位の職です。

 

 

(大久保忠寛、後の一翁)

 

大目付となったばかりの大久保越中守に早速老中が頼み事を持ち込んできました。それは松平春嶽に登城するよう促すことでした。

幕政参与となった春嶽は慶喜を登用するように老中に何度も持ちかけましたが、なかなか老中たちは色好い返事をしません。ならばこちらの提案を受け入れるまでは登城しないというサボタージュ作戦に春嶽は出たのです。困った老中たちはその説得役に越中守を指名しました。

このことがきっかけとなり大久保は春嶽とのつながりができ、その後、何度も会って話し合う機会を持ち、書簡を交わし合うようになります。

やがてその意見交換の輪の中に勝ともう一人の人物が加わることになるのです。このグループが互いに理解を深め思想を共有していくことが後に極めて大きな影響を与えることになります。

 

 

勝、建白書を提出す】

 

さてこの頃、勝は何をしていたのでしょうか。

勝は大久保とはすでに親密な関係にあり、城内や屋敷で会っては色々なことを話し合っていました。この時期、春嶽が将軍上洛を盛んに主張しため、将軍上京の方針が決まりつつありました。

勝は建白書を書き、海路による将軍上洛を提案しました。

将軍上洛は陸路でしか行われたことはあっても海路による上洛はこれまで行われたことがありません。ですが将軍一行が行列を組み上洛するとなると莫大な費用と労力がかかります。厳しい財政事情を抱えた幕府をさらに圧迫します。

勝は建白書の中で、前年秋、和宮一行が陸路を使い江戸入りし徳川家へ降嫁した際の問題点を指摘しました。一行は道幅の狭い中山道を選んだため道路整備が必要となるだけでなく、街道筋の宿場や沿道の民衆は大きな負担と大変な苦労を強いられました。ですが蒸気船による海路を利用すればこうした苦労や財政的負担も軽く日数もかからなくて済むと提案したのです。

 

勝は考えました。この建白書が採用されるには誰に提出するのが一番効果的かを。

真っ先に頭に浮かぶ提出先は上司の講武所奉行です。しかし勝はそうしませんでした。次に考えられるのは、船を動かすわけですから軍艦奉行に願い出ることです。この時の軍艦奉行は咸臨丸で一緒だった木村摂津守喜毅です。ですが勝は木村にも提出していません。勝が建白書を託す相手として選んだのは大目付兼外国奉行の大久保忠寛でした。大久保は勝の提案を老中脇坂安宅(やすおり、再任)に話し、その後建白書幕閣に提出されました。日ならず提案はもしかすると採用になるかもしれないと大久保から勝に知らせてきました。

勝の提案は大久保を通じて将軍上洛を強く主張していた松平春嶽にも当然伝わることになります

 

 

さて本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

※《一口メモ-親藩、譜代、外様大名の違いについて》

譜代大名か外様大名の違いは、徳川家康に従った時期が関ケ原の合戦の前か後によります。また親藩大名は家康の一族で、通常松平姓を名乗ります。

※写真:松平春嶽はウィキペディアより、大久保忠寛は近代日本人の肖像より

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

・「大久保利通」 毛利 俊彦 中公新書

・「幕末史」 半藤 一利 新潮社

・「幕末閣僚伝」 徳永真一郎 毎日新聞社