こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

【江戸に入った勅使一行と久光】

 

京を発った島津久光と勅使大原重徳ら一行の行列は文久二年(1862年)6月7日、江戸に到着しました。日ならずして大原は江戸城に上がり、将軍家茂に勅書を渡しました。それに示されていたのは三ヵ条の要求でした。

すなわち、

1.朝廷と攘夷問題について協議するため将軍を上洛させること

2.五大老(薩摩、長州、土佐、仙台、加賀)の設置

3. 一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老にして幕政を改革すること

 

勅使大原は三つの要求を幕府に対して行ったのですが、その内容に幕閣が容易に首をたてに振ることはありませんでした。そもそも幕府開設以来、朝廷が政事向きのことで幕府に口を出すことなど前例がなく、幕府にすればあり得ないことでした。それでも先の二項目は幕府なりに受け入れる準備をしていました。

幕府は朝廷との関係に配慮し将軍家茂を上洛させることをすでに決め、諸大名にはその旨を勅使到着前(6月1日)に表明しています。前回将軍上洛が行われたのはいつ頃かと言えば、三代将軍家光の時代にさかのぼりますから二百年以上も前のことです。それを復活させるだけでも幕府にとっては大きな決断です。

ですが三つ目の要求は同様に扱うわけにはいきません。明らかに幕閣の人事に口を出すものですから幕閣が強く反発するのは当然のことです。

 

それでも松平春嶽(前福井藩主。親藩)を幕政に参加させることにはさほど大きな反対はありませんでした。ただ一橋慶喜を将軍後見職にすることには強く抵抗しました

かつて安政年間に老中阿部正弘が海防参与に水戸の徳川斉昭を迎えようとした際にも周囲は大反対しました。斉昭が老中たちとりわけ大奥から大いに嫌われていたからです。慶喜は斉昭の息子ですから、やはり幕閣たちの抵抗感は根強いものがあり、今回の朝廷の要求にも頑として受け入れようとはしませんでした。

 

 

勅使大原が江戸城に上がり、交渉相手として対面したのは老中板倉勝静(かつきよ)脇坂安宅(やすおり)の両名です。久光はその場に居合わせていません。

久光は現藩主島津忠義の父というだけで、藩内でこそ国父として威厳を示すことができても、藩外では無位無官の存在でしかなく藩主でもありません。そのため千代田のお城(江戸城の別名)に登り将軍に拝謁することもできない身の上です。

 

 

(板倉周防守勝静、ウィキペディアより)

 

 

幕府が態度を硬化させたのは、幕府方の調査による京都からもたらされた情報ではつ目の要求が天皇の意思ではなく薩摩藩の意向が強く反映されたものであることが明らかになったからです。外様大名が幕閣の人事に口出すことなど許されぬという想いが幕府にはあります。幕府側の激しい抵抗にあった久光は大久保一蔵(後の利通)に命じて、盛んに老中説得工作を行わせました。

 

 

大久保が大原に「両老中が勅命を受け入れぬ場合は生きてお帰しせぬ」覚悟であることを伝えたのは6月26日のことです。板倉と脇坂は大原の宿舎に訪ねた三度目の交渉で、大原からそのことをほのめかされました。首に平手を当てたのでしょう。

交渉の場は異様な雰囲気に包まれました。大久保が隣室に刺客を控えさせていたからです。襖越しとはいえさすがに只ならぬ気配を感じ取った板倉らは極度の緊張を覚えました。恐怖を感じつつも板倉は幕閣の命を狙ってまで我が意を通そうとする薩摩藩の強引な交渉のやり方とこうした無法がまかり通る昨今の風潮に強い憤りを覚えました。

双方の激しい駆け引きの末、ついに幕府は同月29日、勅使の申し出を受け入れました。幕府が薩摩藩の圧力に屈した格好です。

こうして翌7月6日、慶喜は将軍後見職に、同月9日、春嶽が政事総裁職にそれぞれ就任することになりました。

 

亡き兄斉彬の念願であった人事が叶ったことに満足した久光は江戸を引き上げました。その帰国途上、久光一行は生麦村(現在の横浜市鶴見区)でイギリス人を殺傷する「生麦事件」を引き起こします。幕府にとって久光はまさに疫病神で迷惑この上ない存在でしかありませんでした。後に幕府はこの事件の発生によりイギリスから謝罪と多額の賠償金を要求されることになり、大いに苦しめられます。幕臣たちの「薩摩憎し」の感情はこれ以降、強くなるばかりでした。

 

 

(当時の生麦村、ウィキペディアより)

 

 

【もう一人の大久保】

 

さて多くの皆さんは明治維新で大久保といえばすぐに大久保利通を思い浮かべることでしょう。ですが幕府側にも大久保姓の人物がいました。名を大久保忠寛(ただひろ)と言い、この頃、「伊勢守」から「越中守」に改めています。

 

文久年間には、安政の大獄で処分を受けたものが次々と復帰しますが、その一人に幕臣大久保忠寛(後の一翁)がいます。

勝が幕府から受けた最初の仕事は、講武所砲術師範役の任命があった年の六年前(安政二年)に行った大坂・伊勢の海岸視察のための出張でした。この時、勝は当時海防掛を務めていた大久保と行動を共にしています(第28話)。

大久保は勝が黒船来航後の翌月に幕府に提出した海防意見書を読み自ら貧乏旗本の勝の自宅を訪ねて来た人物です。その頃から両者の生涯に亘る永いつきあいが始まります。

 

 

文久元年8月、大久保は蕃書調所勤務に復帰します。それ以降、勝と大久保の二人の幕臣は起用されては職を免じられることを何度も繰り返しながら共に江戸無血開城まで(さらに明治以降も)思想と行動を共にしていきます。勝の生涯にとって最も重要な人物です。

大久保は復帰2カ月後の10月には早くも外国奉行に任命されます。翌二年にはさらに幕臣として最高位にまで登りつめることになるのですが、それは後の回にお話します。

 

 

さて本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

  

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

・「大久保利通」 毛利 俊彦 中公新書

・「幕末史」 半藤 一利 新潮社

・「幕末閣僚伝」 徳永真一郎 毎日新聞社