こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

【難題に苦悩する老中 安藤信正】  

 

前回、長州藩長井雅楽が唱えた『航海遠略策』が藩論となり、藩命により朝幕間を取り持つために東奔西走したことをお話しました

この長井の活躍により文久元年は公武合体が最も盛り上がりを見せた年になりました。

ところが翌文久二年(1862年)に入ると政局の流れは一気に攘夷派に優勢になり、公武合体派は急速にその影響力を失ってしまいます。そのきっかけとなったのは、この年1月15日に起きた水戸藩士六名による老中安藤信正への襲撃事件でした。駕籠で登城する老中を桜田門外の変と同じ手口で尊攘派浪士たちが襲ったのです。

 

先の井伊大老襲撃事件の反省から幕府の警備は強化されていたため、安藤は頭と背中に負傷はしたものの城まで逃げ込むことができました。襲撃した六名は全員、斬り伏せられました。世に言う「坂下門外の変」です。

 

安藤信正は傷の程度も軽く命を落とさずに済みましたが、井伊大老の横死からわずか2年の間に幕府の中心人物が二度も襲われる事態は尋常のことではありません。幕府の権威はさらに大きく傷つけられることになりました。

安藤には外国掛老中として取り組まねばならない外交上の難題がありました。安政五年の通商条約では横浜や長崎の開港の他に、江戸・大坂の両都、新潟・兵庫の両港の開市開港が定められており、その期限が近づいていました

 

 

ですが国内は深刻な問題が山積みになっていました。

開港により江戸では生活物資が不足し物価は高騰していました(第88話)。さらに金と銀の交換比率が日本と外国とでは異なっていた(日本1:5に対し外国では1:15)ことから大量の金が国内から流出しました。

 

幕府は対抗策を講じました。小判の改鋳を行うことで海外との交換比率に近づけ、金の流出の食い止めを図ったのです。ですがこの対策には大きな副作用がありました。物価の高騰を引き起こしたのです。改鋳により貨幣の価値が下がるとモノを取引をする場合に以前と同等の価値を確保するには取引に要する小判の枚数を増やす必要があります。そのためインフレ問題を引き起こすことになりました。

 

こうした問題の発生が幕府への不満を募らせ、庶民だけでなく大名、旗本を含め多くの人々の生活を苦しめました。

 

 

そんな中、新たな外国人襲撃事件が起きます。

ヒュースケンアメリカ公使通訳官が襲撃されたのは前年12月でしたが、その半年後の文久元年(1861年)5月28日に事件は起きました。

水戸脱藩浪士十四名が高輪東禅寺にあったイギリス公使館に侵入し、公使であるオールコックの命を奪おうとしたのです(東禅寺事件)。襲った浪士と警備をする者たちとの間で戦闘が起き、双方ともに負傷者が出ました。オールコックは難を逃れましたが、長崎駐在領事のモリソンらが負傷しました。こうして攘夷の風は以前にも増して激しくなり、幕府は一層頭を痛めなくてはなりませんでした

 

 

(東禅寺事件。ウィキペディアより)

 

 

こうした情勢の下で、開市開港すれば国内の混乱はさらに広がり収拾がつかない事態に陥ることは誰の眼にも明らかでした。そこで安藤は諸外国に対し開市開港の延期を申し出ることにしました。とりわけ京に近い大坂開市兵庫開港は朝廷が激しく反発することが予想されました。

 

この頃にはかなり日本の事情に精通していたアメリカのハリスは、すでに本国に対し江戸の開市は時期尚早と報告していました。一方、オールコックは開市開港延期に当初反対の立場を表明していましたが、東禅寺事件をきっかけに認識を改めます。事件の2カ月後の7月、オールコックは安藤と会談し、幕府の内情への理解を深め開始開港問題の延期に同意するようになります。

 

先に幕府は諸外国の各本国政府とこの懸案事項について直接交渉する使節団を欧州へ派遣することを決めていました(文久遣欧使節団)。この使節団が日本を発った(文久元年12月22日)年の翌年、オールコックは帰国し、開市開港延期を求める幕府のために骨を折り、本国政府にその必要性を説いています

その結果、開市開港の5年間延期を認める「ロンドン覚書」が日英間で交わされました。

 

(オールコック。ウィキペディアより)

 

坂下門外の変が起きた直後、手当を受けた安藤は包帯に傷口の血をにじませたままオールコックと交渉の場に臨みました。その姿を見たオールコックはこの国の運命を負う安藤の強い使命感と重い責任感に深く胸を打たれます。各国の先鞭となったロンドン覚書の調印が行われた背景には、安藤に心を動かされたこのイギリス公使の熱烈なサポートがあったのです。 

 

 

【老中安藤信正の失脚】

 

安藤は老中就任以降、他の難しい外交問題にも積極的に取り組み、内外の事情に鑑みながら巧みな交渉を重ねていきました。そのため各国の公使からも厚く信頼されていました。

 

傷が癒えた3月下旬、再び安藤が出仕したところ、思いがけず大目付と目付衆が安藤の復帰に反対していることを知ります。2ヵ月前の事件で安藤が背中に傷を負ったこと武士の体面上、不名誉であると批判されたのです。しかし、それは表向きの理由でしかありません。幕府内には安藤が推し進めてきた政策を快く思わない者たちがいたのです。そのため体の良い理由をつけて追い落としたのです。 

 

背中の傷は襲撃した浪士が、安藤が乗る駕籠に一刀を貫いた際にその切先が不運にも背中をかすめたことによるものでしたから、卑怯者呼ばわりするのはいささか無理があります。

しかしすべてを察した安藤は老中を辞任することを自ら申し出ました。幕府がこの外国掛老中を事実上罷免したのは文久二年4月のことです。

 

 

(安藤信正。ウィキペディアより)

 

こうして幕府からまた一人、有能な老中が幕閣から去ることになりました。この時、安藤はまだ四十四歳でした。まだまだ仕事ができるはずでしたが、周囲の状況と取り巻く環境がそれを許しませんでした。これ以降、幕府には安藤に並ぶ老中が現われることはありませんでした。

 

本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「幕末閣僚伝」 徳永 真一郎 毎日新聞社

・「幕末史」 半藤一利 新潮社

・「ラザフォード・オールコック」 ウィキペディア