こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
【陰で動いた岩倉具視】
前回、将軍家茂と皇女和宮との政略結婚が成立したお話をしました。
この婚約が成立するまでには多くの困難がありました。最大の理由はご本人の和宮が嫌がったことです。和宮にはすでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という許嫁(いいなずけ)がおられたのです。また和宮が都である京から武家ばかりの江戸に行くことをとても嫌っておられたこともその理由の一つです。
しかし結果的にこの宮との婚約は解消させられてしまいます。有栖川宮も応じるしかありませんでした。
当初実現不可能と思われたこの政略結婚を実現させるためにその背後で動いた一人の公卿がいました。幕末の大立者の一人、岩倉具視です。策士と言われた岩倉は孝明天皇を巧妙に説得しました。
和宮が将軍家茂の正室になればこれまでのように朝廷の意向を無視して幕府だけの判断で国の方針や政治向きのことができなくなると進言したのです。外国人嫌いの天皇に対し、幕府に安政の通商条約を破棄させ、開国から攘夷に方針を転換させることができると吹き込んだのです。岩倉の考えに動かされた孝明天皇はついに和宮に徳川家との婚儀を承諾させました。
こうして泣く泣く和宮は江戸に嫁ぐことになりました。幕府が和宮の降嫁を発表したのは、万延元年(1860年)11月1日のことです。
【頻発した外国人襲撃事件】
翌12月5日、アメリカ公使ハリスの通訳官であったヒュースケンが攘夷派の薩摩藩浪士に襲われ落命します。ヒュースケンはオランダ人でしたが、アメリカに渡りそこで通訳官の仕事を見つけ、日本にやって来ました。この好奇心旺盛の若者は日本に大いに興味を持ち滞在中はあちこちを出歩き、当時の日本人や日本の風景について日記に書き残しています。
この頃、英語とオランダ語ができる通訳の存在は貴重だったため、ヒュースケンはアメリカ以外の国の日本との交渉の仕事でも通訳の仕事を進んで引き受けていました。ハリスも認めていましたし、ヒュースケン自身に日本のためになることなら、という想いがあったのでしょう。
この日の夜、プロイセンから依頼があった仕事を終え、護衛の者たちと共にアメリカ公使館として使っていた善福寺に馬で向かいました。一行が芝赤羽橋近くの中之橋辺りに差し掛かったところ突如、待ち伏せしていた数名の薩摩藩浪士たちが襲いました。夜9時頃のことです。ヒュースケンは馬上で両脇腹を刺されました。深手を負ったまま馬を走らせますが、ついに落馬。その後、手当を受けますが重傷のため翌日にこの世を去りました。まだ28歳の若さでした。日本を愛し日本のために力を尽くした若者は、日本人の手によって暗殺されたのです。
有能な通訳官を失ったハリスの悲しみの深さはいかばかりであったでしょう。ヒュースケンは安政三年(1856年)7月、ハリスの下田赴任に伴い来日しました。以来、幕府の役人との交渉の場に常に同席し、通商条約の締結に力を尽くしました。ハリスにすれば同志と言ってもよい存在でした。
幕府は外国人の外出が危険なことを警告していました。ですがこの異国の若者は頼まれれば身の危険を承知しながらもこの国の未来を思い行動していました。その結果、不幸な出来事に遭遇したのです。幕末史の一つのエピソードに過ぎないとはいえ、痛ましい事件であることに変わりはありません。幕府はこの事件のために母親に対し一万ドルの賠償金を支払うことになりました。
幕府は対策を講じましたが、その後も流血を見る外国人襲撃事件は何度も起きています。
(東京都港区にあるヒュースケンの墓 ウィキペディアより)
和宮と家茂のめでたい結婚話で世の中が明るくなり、人心が落ち着くことが期待されたのですが、それどころか反対に世の中はますます暗くなり殺伐さが増すばかりでした。この事件以降、攘夷派の意気はますます盛んになり幕府は長くその対応に苦しめられることになります。
【長井雅楽の登場】
苦境に立たされていた幕府ですが、思わぬところから救世主が現われます。意外にもそれは後に幕府と敵対することになる長州藩からの提案でした。
長州藩直目付(じきめつけ)の長井雅楽(ながい うた)は、藩内で「智弁第一」とうたわれた人物でした。その長井が時勢収集策として藩主毛利敬親(たかちか)に建白し、長州藩の藩論として採用されたのが『航海遠略策』です。文久元年(1861年)3月(※)のことです。
長井の『航海遠略策』の内容をざっくりと紹介しましょう。
「条約を諸外国と結び開国することを決定した以上、今更それを破棄することは道理に反する。攘夷を唱え外国人の一人や二人を傷つけたところで何の意味もない。」
そして、「朝廷も幕府もこれまでのいきさつを水に流し、自ら『航海』を開き、外国に学び交易を盛んにして国力を高めることにこそ意を用いるべきである。海外の進んだ技術を取り入れ諸外国と渡り合えるだけの力を養い、将来を展望した国の方針(『遠略』)が朝廷より出され幕府がこれを奉じて行う。こうすれば国内もまとまり、世界に皇国の存在を示すことができる」というもので、現状を踏まえつつ将来を展望する堂々たる議論でした。
開国論と攘夷論が激しく対立する現状に頭を痛め、事態を打開するために公武合体路線を進めていた幕府にとってまさに「渡りに船」の提案でした。というのは長州藩が示した策は公武一和に理論的正当性を与えるものと考えられたからです。
藩主敬親はこの策を長州藩の藩論とすることにし、朝廷と幕府に周旋するよう長井に命を下しました。長井は同年5月、京都に入り朝廷へ入説し、さらに8月には江戸にまで足を伸ばし、老中久世広周、安藤信正の幕閣と会談し圧倒的な支持を受けました。長井の登場により長州藩は政治の舞台に躍り出るきっかけを得たのでした。
本日はここまでとしましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書
・「幕末の長州」 田中 彰 中公新書
・「幕末史」 半藤一利 新潮社
・武将ジャパン 「ヒュースケン殺害事件~幕末の日本を愛したオランダ人好青年の哀しい予感」 小檜山青
※万延二年2月、改元され文久元年となります。