こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
【万延元年後半の国内の動き】
前回の続きです。
勝が咸臨丸で帰航したのは万延元年(1860年)5月、蕃書調所頭取助勤務を命じられたのは翌6月でした。勝が閑職にいる間に万延元年後半以降の中央政局の動きについて見ていくことにしましょう。
この年8月15日、井伊の政敵であった徳川斉昭が亡くなります。ちょうど一年前、井伊大老により蟄居を命じられており、国許での永蟄居処分のまま死を迎えました。享年六十一歳。
翌9月、幕府は一橋慶喜、松平慶永(春嶽)、山内豊信(容堂)らの安政の大獄で申し渡された謹慎を解いています。とはいえ、すぐに政治活動に復帰できたわけではありません。他人と面会することや手紙をやりとりすることまでは許されていなかったからです。慶喜、春嶽、容堂らが面会と文通が許されるのは、これからおよそ一年半後の文久二年(1862年)4月25日のことでした。
井伊亡き後、幕府は久世広周(くぜ ひろちか)と安藤信正(のぶまさ)の両名を老中に起用し幕政を担当させました。桜田門外の変以後、幕府には井伊直弼クラスの人物は輩出せず、凡庸な人物が老中を務めることになります。その幕府内で高い評価を得ていたのが安藤信正でした。政権の筆頭には久世が就いていましたが、実質的には安藤を中心に動いていました。
(福島県いわき市にある 安藤信正像)
この頃、巷間で非常な高まりを見せていたのが「尊王攘夷運動」です。簡単に言うと尊王は天皇を尊び、攘夷は外国人を排斥し追い払うという意味です。
かつての鎖国時代には外国人との交際や取引は長崎に限られていました。ところが、安政5年、各国と修好通商条約が締結されると横浜港が開港され、外国商人との間で貿易取引が始まり、早や3年目を迎えていました。
外国商人たちは日本の商品を高値で買い取ってくれるため、商人たちは商品を江戸より儲けの多い横浜にどんどん送るようになります。当時の江戸は人口が百万人を超えていたと言われるほどの世界有数の都市でしたから、一大消費マーケットです。そのため江戸で様々な生活物資の品不足が生じるようになりました。困ったのは江戸の庶民たちです。商品の供給不足により物価が高騰し始め、庶民の生活は一気に苦しくなったからです。
そこで幕府は「五品江戸回送令」(五品とは、生糸・米・水油・蝋・呉服のこと)を発令し、商品を江戸に経由させる統制を行いましたが、商人からは反発され外国にも不評でした。
こうして幕府が開国したせいで、暮らし向きが悪くなったと考える人々が増え、徳川幕府に対する不満は大きくなっていきました。
一方、幕末期には水戸藩を中心に尊王思想が急速に力を得て広まりました。天皇は帝(みかど)、将軍は公方様(くぼうさま)と当時の人たちは呼んでいました。庶民にとってこの国を支配しているのは公方様であり、これまで帝はなじみのない存在でした。ところが孝明天皇が外国人嫌いであることが知れ渡るようになると幕府政治への不満や反感と結びつき、尊王攘夷という考え方が瞬く間に全国に広まっていきました。
【公武合体の象徴だった皇女和宮の降嫁】
幕府は何らかの手立てを打たねばならない状況にありました。
そこで久世・安藤政権が強力に推進したのが、いわゆる「公武合体策」です。「公」の朝廷と「武」の幕府が手を結んで国難に対処しようと考えたのです。
井伊大老が勅許を得ずに条約に調印したことで朝廷と幕府との関係はこじれたままでしたから、朝幕間の関係を修復させる必要がありました。そのため天皇家から将軍の御台所を迎えることで関係の融和を図ろうと目論んだのです。
元々、井伊が大老職にあった頃からこうした働きかけは朝廷に対して行われていました。ところが井伊大老が亡くなったためこの話は立ち消えになっていたのです。
その後、老中安藤信正が粘り強く交渉を重ねた結果、孝明天皇の妹の和宮と十四代将軍家茂との婚儀が成立しました。
孝明天皇は当初、この婚儀に反対を表明していましたが、幕府がある約束を守ることを条件に和宮を降嫁させることを許しました。
その約束とは、徳川幕府が攘夷を十年内に実行することでした。
幕府は攘夷実行が不可能であることを百も承知していました。できないことを知りながら約束したのです。十年も先のことなら攘夷が無理なことを追々説明していけば朝廷も少しずつ認識を改めるだろうと高を括っていたのかもしれません。
本気で攘夷をやる氣がないにもかかわらず、目先の難しくなった時局を乗り切るためにウソも方便とばかり「公武一和」を優先させたのです。国の行く末を危うくしかねない問題を先送りしてまでそうした決定を行ってしまうとは、政治の当事者として真に無責任な態度と言うしかありませんでした。
この約束をしたことは後に大きなつけとなり、幕府をさらに窮地に追い詰めてゆくことになります。そのようになった理由の一つは孝明天皇が徹底した外国人嫌いの攘夷思想の持ち主であったからです。
この時代、朝廷は現実を直視せず頑なに外国人を嫌いました。歴史にイフはありませんが、朝廷が先入観を捨て幕府の言い分に少しでも耳を傾けることができたならと思われてなりません。幕末史があれほど錯綜し凄惨な事件が起き続けた歴史となった一方の理由は、朝廷の無理解さにあったと考えられるからです。伝える側と伝えられる側が情報を共有し共通の認識を持つことが極めて難しい時代であったのです。
本日はここまでとしましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書
・「幕末史」 半藤一利 新潮社