こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

大型連休が始まりましたが、お仕事の方もおられるでしょうね。さて新たな章の始まりの今回が平成最後の投稿ということになります。では始めましょう。

 

 

【帰国した勝たちを持ち受けていたもの】

 

咸臨丸が浦賀に到着したのは、万延元年(1860年)5月5日のことでした。帰り着くと乗組員一同を驚かせる大変な事件が国内で起きていました。井伊大老暗殺事件です。

このときのことを勝は「氷川清話」の中でこんな風に語っています。 

 

「浦賀に着いたから、おれは一同を入浴のために、上陸させてやらうとして居るところへ、浦賀奉行の命令だといって、捕吏がどやどやと船中に踏み込んで来た。

れも意外だから、『無礼者め、何をするのだ』と一喝したところが、捕吏がいふには、『数日前、井伊大老が桜田で殺されたについては、水戸人は厳重に取調べねばならぬ』といふから、おれも穏やかに、

『亜米利加には水戸人は一人も居ないから直ぐに帰れ』と、冷やかして帰らしたヨ。しかし、おれはこの時、桜田の変があったことを初めて知って、これは幕府はとても駄目だと思ったサ

 

 

勝は登城中の井伊大老が襲撃され命を落としたことを知り、大きな衝撃を受けました。勝は井伊大老が安政の大獄において行った処置について、「大老之処置、刑名に出て惨に過ぎ」、「寛大之風なし」と批判的な態度を取っています。しかし安政年間、将軍継嗣問題と条約調印問題で揺れ動く中、重責を担い退路を断って難局に立ち向かった人物と高く評価しています。

様々な歴史的な人物についての評論をまとめた『追賛一話』の中で、井伊直弼については次のように記しています。

「嗚呼(ああ)、当時大老の苦慮、孰(たれ)か能く明察せむ哉。誠に痛嘆するに堪えざるなり」。

  

【勝の帰国後の処遇】

 

遣米使節一行が帰国したのは、4カ月後の9月27日のことでした。現地で木村や勝と別れワシントンに向かった正使ら一行は、ブキャナン大統領に謁見し通商条約の批准書を交換し使命を無事果たしました。その後、帰国の途に就くためニューヨークから出港しアフリカ喜望峰を廻り、インド洋を経て帰国しました。

幕府から咸臨丸の乗組員に対して恩賞が与えられたのは、正使一行の帰国を待って行われたためその年の12月1日となりました。

 

 

(遣米使節を迎えるブキャナン大統領 ウィキペディアより)

 

 

ところで勝は咸臨丸で帰国した一カ月後(6月24日)には、海軍とは全く関係のない役所の勤務に就くように命じられました。新たに就いた役職は、蕃書調所頭取助ばんしょしらべしょとうどりすけ)。外国の文書を翻訳したりする役所で頭取をサポートする役どころです。旗本としての資格は「天守番之頭」格となり、身分は少し引き上げられました(天守番といっても明暦の大火で江戸城天守は焼失しているので、一種の名誉職だったのかもしれません)。ですが これまで海軍畑を歩み続けて来た勝が海軍の仕事から外されたことは、事実上の左遷人事であると言えました。そのことをズバリ指摘した人物がいます。妹婿の佐久間象山です。

 

どうしてこのようなことになったのか、詳しいことはよくわかりませんが考えられることはあります。

勝が上司の木村摂津守と何度も見解の相違により意見が対立したり、度々異議を唱えたりしたことがあったことはこれまでにも何度かお話しました。咸臨丸で太平洋横断の航海中も「バッテーラをおろせ」と癇癪を起し、周囲に当たり散らすこともありました。

 

この頃の勝の不満は幕府のがんじがらめの身分制度や能力に応じた人材登用が行われないことに対するものでした。年下で家柄が良く温厚な人物である木村は、たまたま勝の上司であったためその標的にされただけです。当時は勝も血気盛んで嫉妬心があったのでしょう。しかし、渡航費用や水夫たちへの恩賞の資金を家宝の売却により自前で捻出する木村の姿を見て勝もきっと敬意を持ったはずです。そのため後には両者とも互いを認め合う関係になっています。

 

 

勝の不満爆発は自身の中ではいかに正当性があるものであったとしても、周囲の者たちにとっては迷惑この上ないことであったでしょう。そのことで一番困らせられたのは木村だったはず。とはいえ木村は上司として勝麟太郎という部下に手こずることはあってもどうしょうもない人物と見ていたわけではありません。むしろ勝が類まれなる能力の持ち主であり、その有能さは大いに認めていました。

 

勝が不運であったのは乗船後すぐに病に倒れ(船酔いでなく)、往路で艦長としての役割を十分に果たすことができなかったことです。そうした事実や小野友五郎の技量がブルック大尉から高く評価されるものであったことなどは木村から幕閣に対し報告されました(小野は陪臣でありながら将軍家茂にお目見得する栄誉に浴しています)。報告する木村にはその人柄から勝を貶める意図はなかったと思われます。ですが勝に不満を持つ者たちから良くない評判が伝えられたことは十分考えられます。「身から出た錆」と言えなくもありませんが、こうしたことが勝の「海軍追放」につながった可能性はあります。

 

 

本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟全集2 書簡と建言」 講談社

・「氷川清話」 勝海舟 講談社学術文庫