こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
【帰国準備の日々②】
前回の続きからお話を始めましょう。
閏3月14日、勝は小野、牧山、万次郎らと共に病院を見舞い、入院して病院食に馴染めない者たちのために米、味噌、鰹節、醤油、梅干などの食料と鍋などの日用品を差し入れています。
この2日前、8名の病人を海員病院に入院させ、2名の付き添いを含め10名をアメリカに残して、咸臨丸は出航することになっていたからでした。
翌15日は様々な人物が別れのあいさつのため咸臨丸を訪れています。夕方4時頃、咸臨丸のそばを一隻の通い船が通り過ぎました。
木村がその船の甲板に見るともなく目を向けたところ、こちらに向かってハンカチを振りながら踊る一人の女性がいました。
それがカニンガム提督夫人であることに木村は氣づきました。負傷して外出できない夫の代りに妻女が別れを告げるためにわざわざサンフランシスコまでやって来たのです。そのことに木村は驚きながらも深い感動を覚え、提督夫人に向け激しく手を振って応えました。
翌16日、勝は木村、小野らと共に挨拶のため市長宅を訪ねました。入院させた8名が治り次第、看病の2人と共に便船にて送り届けてもらうよう申し出るためです。そのための手当も渡しています。
同18日、勝は水夫、火焚たち全員に命じて汚れた布団を捨てさせ、毛布を一枚ずつ与えました。帰路の航海で再び病気が蔓延するのを防ぐためでした。
咸臨丸がサンフランシスコを出航したのは、閏3月19日(陽暦5月8日)のことです。この日の朝、遣米使節の一行が乗船したポーハタン号が近く首都ワシントンに着く見込みだという知らせが貿易商ブルックスからもたらされました。今やすべての任務を終えた木村摂津守と勝 麟太郎は、何の憂いもなく帰国に向けて出航するばかりとなりました。
【帰りなんいざ】
この日、天候は晴天。午前6時54分、蒸気罐(かま)に火が点じられます。
8時10分、ブルックスと水先案内人らが途中まで見送るため乗り組み、8時15分、抜錨。港を出航し外洋に向かいます。
サンフランシスコ湾を出るまでの間、碇泊していた米国軍艦や近隣の砲台からは咸臨丸に向けて惜別の念を込め、航海の無事を祈る祝砲が次々と放たれました。
「三里外まで送り来」たブルックスらは、ここで迎えの船に乗り移り、別れ告げて戻っていきました。
ブルックスという人物を覚えておられるでしょうか。第78話にも登場したこの貿易商は、咸臨丸が帰国の途についた後、病院で亡くなった峯吉の墓を建ててくれた人物です。木村はブルックスについてこう述べています。
「この人いまだ年少ではあるが温厚で俊敏な才能の持ち主。…(中略)…。滞在中の用向きは何事によらずこの人に安心して任せたところ、いつも懇切な扱いをしてくれ奔走してくれていた」と心からの感謝の言葉を綴っています。
ちなみにブルックスはこの後、徳川幕府の時代にサンフランシスコ日本領事となり、明治政府になってからもその任に当たっています。
咸臨丸はその船首をハワイに向け満帆にして順調に進んでいきます。往路であれほど苦しめられた荒れた海も復路では打って変わったかのような穏やかな海でした。
帰路のためにアメリカ人水兵を5人雇入れましたが、水夫たちが自分たちの力だけで帰り着いてみせると一同で申し合わせていました。そのため米国水兵たちには仕事が無く、復路は文字通り日本人による太平洋横断を成し遂げた航海となりました。
(咸臨丸、太平洋横断航路図 上の航路が往路、下が復路)
4月4日、ホノルルに入港。上陸した木村らは、カメハメハ国王に面会し、友好的に迎えられます。
同月7日、ホノルルを出航した咸臨丸は、一路浦賀を目指します。
途中、暑さに苦しめられ、風の強さに波が荒立ち、船が激しく揺れることがありましたが、慌てることなく危機を克服しています。
往路での経験が活かされ、士官らの操船技術が向上し水夫たちも落ち着いた行動が取れるほどにたくましくなっていました。帰航の指揮を精力的に執ったのは小野友五郎です。帰路、勝は士官らに操船を任せていたようです。
咸臨丸が浦賀に帰り着いたのは、万延元年(1860年)5月5日でした。無事帰国を果たした一同のどの顔にも歓喜と安堵の表情が浮かびました。
翌6日(陽暦6月24日)には品川に到着。ここに咸臨丸は百四十日余りに及ぶ冒険的航海を終えたのでした。
【この章を終えるにあたり】
咸臨丸の乗組員たちはポーハタン号に乗船した遣米使節のような外交的役割を担っていたわけではありません。けれどもサンフランシスコやメア・アイランドの地において、行政官や軍人、造船所で働く人々と彼らの家族、市井の人々など多くのアメリカ人と出会い、片言の英語で言葉を交わしました。時には手振りや身振りでコミュニケーションを図りながら熱心に見聞を広めていきました。
アメリカ大陸の土を踏んだとき、彼らは皆、異国の風土や習慣の違いに驚きと戸惑いを覚えました。日本人の口に合わない食事に最後まで閉口した者もいました。
その彼らが一様に驚いたのは女性の社会における立場でした。
勝は市中で様々なものに観察の眼を向けていますが、女性についても『海軍歴史』にこんな記述を残しています。
「総て婦女子を尊敬すること甚だしく、…(中略)…。夫婦は甚だ親睦、絶えて口論等を見ず」とこの国の女性に対する扱いや接し方がわが国とは大きな違いがあることに注目しています。
一方、咸臨丸の日本人たちも当時のアメリカ人に鮮烈な印象を焼きつけました。
頭に髷を結い美しい着物と大小二刀を腰に帯びたサムライ姿に当時のアメリカ人は目を奪われました。独特の文化は格調の高さをうかがわせ、士たちの奥ゆかしい物腰や折り目正しい所作は彼らを魅了しました。それは歓迎会などの公式の場だけでなく、アメリカ社会の日常で触れ合うあらゆる機会を通じて行われました。
木村や勝らの言動は両国の親善を深めることに一役買い、咸臨丸渡航が果たした役割は遣米使節の功績にも決して引けを取るものではなかったのです。
さて今回で咸臨丸渡航のお話はすべて終了です。前章を含めると31話に及ぶお話になりましたが、長くおつきあいいただき真にありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟全集8 海軍歴史Ⅰ」 講談社
・「咸臨丸、海を渡る」 土居 良三 中公文庫
・「幕末軍艦咸臨丸」 文倉平次郎 中公文庫
※「咸臨丸、太平洋横断航路図」は、「船の科学館ものしりシート 蒸気軍艦咸臨丸」(「幕末軍艦咸臨丸」より)から