こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
【バッテーラをおろせ!】
木村喜毅が明治になって咸臨丸での勝のことについて語っています。
「何分身分を上げること事もせず、まだあのころは、(幕府の威光も衰えてはおらず-筆者注)切迫していないものですから、ソウ格式を破るという工合にゆかないので、それが第一不平で、八つ当たりです。始終部屋にばかし引込んでるのですが、艦長の事ですから、相談しないわけにも行かず、相談すると、『どうでもしろ』という調子で、それからまた色々反対もされるので、実に困りました。…(中略)…。つまり不平だったのです」。
「おれはこれから帰るから、バッテーラ(ボート)をおろせ」と勝が癇癪(かんしゃく)を爆発させたという有名なエピソードは、この木村の談話の中で取り上げられたものです。
木村は勝が自身の身分が低いことに不満を抱き、船室から出てこず不貞腐れていたとしか終生見ていなかったのです。また木村のおかげで米国行きの志願が叶い、従者として世話に当たった福沢諭吉の「しごく船に弱い人で…」という勝に対する批判的な見方も同様のものです。
ですが木村も福沢も咸臨丸内で起きていた深刻な問題については何一つ理解していませんでした。前回お話したようにブルックの提案は木村によって葬られました。その後ブルックに迫られた勝は木村に判断を仰げないため、自身で日本の軍艦の指揮権をアメリカ人に委ねるという苦渋の決断を下さねばなりませんでした。勝が味わった屈辱を木村も福沢も知る由もなかったのです。福沢は従者ですからこうした事情を知る立場にはありませんから止むを得ないことであったでしょう。ですがトップの木村には勝が感じた痛みの何分の一かは共有しなくてはならない立場にあったはずです。その点で木村はいささか無関心であり過ぎたというべきでしょう。
木村に対して恨みがましいことを日記に記さざるを得なかった勝の心情を私はしっかりと受け止めたく思います。この艦の提督に好意的なブルックでさえこの時の木村について日記に不満めいたことを書いています。
「提督(木村)自身も船舶運用に関して何一つ知っていない。彼は私が船を動かす事が出来るのだから安心だと思っている。それで差当り万事変わりなしということになった」。
勝はこのことを生涯口にすることがありませんでした。そのため、木村の証言と福沢の自伝での勝評だけが広まり今に至っています。
勝の木村に対する態度や言動がこうした事態を招いたことは否めません。勝と木村の間で、少しでもコミュニケーションが図られていたら今少し状況は変わっていたのかもしれません。
ですが、勝が「バッテーラをおろせ」と癇癪を爆発させるほどの苛立ちを見せた最大の原因は、艦の運用にまで「身分格式」を持ち込む木村の考え方であり、現状を変えようとしない姿勢だったといえます。
(墨田区役所 勝海舟コーナーの咸臨丸模型)
二百数十年もの間、幕府を動かしてきた組織原理を木村は軍艦にも持ち込もうとしていました。一方、咸臨丸は当時において最新の技術と機能を備えた軍艦であり、いわば近代を象徴するものでした。木村が全身に纏う旧来の陋習にオランダ人から艦長教育と航海訓練を受けた勝の近代が抵抗してみせたのです。
木村は海軍伝習に関与したとはいえ勝のようにオランダ人から海軍教育や訓練を受けたわけではありません。軍艦を動かすのは身分や門閥ではなく、その職務を遂行するための訓練を受けた能力を持つ者でなければなりません。時代の変化に相応しい新たな考え方や発想が必要になるにもかかわらず、そのことを理解してもらえない苛立ちを勝は常に抱えていたのです。同じ苛立ちをブルックも感じていたはずで、その意味で彼は勝の同志であったと言えます。
この時の勝にはまだ自分が抱える苛立ちや想いにどのような正当性があるのかを明確に主張できるだけのものがなく、そのため他人には不満としてしか映らなかったのかもしれません。その何かを見つけるために勝はアメリカ社会を自分の目で視に行かねばならなかったのです。
さて本日はここまでとしましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「咸臨丸、海を渡る」 土居 良三 中公文庫
・「新訂 海舟座談」 巌本 善治編 岩波文庫
・「新版 福翁自伝」 福沢 諭吉 角川文庫
・「海舟余波 わが読史余滴」 江藤 淳 文芸春秋