こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

ブルックの提案を拒んだ木村喜毅は現状のまま何も変えないことを望んでいました。

「もし私が部下の当直をはずし、船の仕事を拒否したら提督(木村)はどうするだろう」とブルックは万次郎に話しかけると、万次郎は「船を沈めてしまうでしょうよ」と答えました。そして「そんなことで死ぬのは惜しい」と付け加えました。

ブルックは艦長の勝と話す必要があると考えました。

 

 

【勝の病状を気遣うブルック】

 

さて勝のことです。

海が荒れた1月27日の前日、勝の部屋をブルックの部下が訪れ「薬を調剤し」てくれました。ブルック自身は2月4日、5日に勝を見舞っています。

「2月4日、勝艦長は幾分気分がよさそうだったが、まだ寝たままである。彼にスープとブドー酒を少々与えた。提督は部屋に籠っている」。

翌日も勝はスープとブドー酒を贈られ、「艦長は快方に向かっている。…(中略)…彼は寝床の上に坐っていて、非常に感謝しているようであった。大変静かな人で、私は彼の声を聞いたことがない。士官達は彼を非常に畏敬しているが、滅多に彼に近寄らない。」

 

7日、勝は船室から出てきますが、まだ「弱々しく、デッキには立てない」状態でした。

ブルックは航海を通じて勝を艦長と呼んでおり、敬意を払っています。その後も勝にブドー酒や朝食を贈り病状を気遣っています。

8日、勝は起き出しブルックに会うと「ワシントンに行きたい」と話し、ブルックはただ「グッド・アイディア」と答えるに止まりました。

 

 

【指揮権委譲】

 

「日本人はまったくのろまだ」と毒づく一方で、「日本人達は、この間船が波をかぶってから、大分経験を身につけてきた」とブルックは教育・指導することに喜びと手応えも感じていました。

しかし咸臨丸は今も指揮官不在のままでした。船内で最高の地位にある木村喜毅は船の運航をブルックらに任せ切りにし、唯一指揮権を持つ勝は病床にあり、まだ指揮を執れずにいました。

 

 

再びブルックの日記。

 

「2月10日に私は士官達や艦長と話し合いがついた」

 

とあります。どんな話し合いがついたのでしょうか。

ブルックは士官たちに上手廻し(※)という技術を教えようと声をかけました。

ところが士官たちが色々と言い訳をしてデッキに姿を現しません。頭に来たブルックは自分の部下を集め、「私の承諾なしに何もするな」と言い渡し、船室から出るなと命じました。もはやストライキですね。

そしてブルックは万次郎と共に勝の船室を訪ね、勝に「もし士官達が協力しないならこの船の面倒はみない、と申し送った」のです。

ついにブルックは自分の部下全員を船室に引き上げるという強硬策に出ました。ブルックのチームが咸臨丸の操船から一切手を引けばどのような事態になるか、そのことが勝にわからないはずがありません。ブルックは切り札を切り、勝は究極の決断を迫られました

 

勝の航米日記にこの時のブルックが語った内容が記されています。

「船内には規律が無く、そのため士官も水夫も十分な働きをしているとは言えない。彼らの将来の為になることを教えたとしてもこのままでは何の役にも立たない。きちんと規則を定め、航海術を修めさせなくてはならない」。

 

ブルックに迫られ勝が下した決断は、「士官たちを説き諭し、彼らを私(ブルックのこと)の配下につけ」ることでした。

それは咸臨丸の指揮権を勝からブルックに引き渡すことを意味していました

 

同日記。

「自分は今、生死の境も定まらない、奉行(木村)は船のことは人任せにして船室で安眠するだけで、士官水夫の働きぶりに全く関心を払っていない。ここに困難極まれり」。

と書き、さらに「この際の苦心誰か知らん、又誰にか告げん(今の自分の苦しみを誰も知らず誰にも伝えられない)とその苦衷を綴っています。

 

この時、狭い船室の中で勝は何を考えていたのでしょうか。

アメリカ行きを自ら志願し、不本意な思いもしたものの日本国から派遣される使節の護衛艦の艦長格となり、わが士官たちに「公裁せんとす」と自分が指揮官であると宣言しました。ところが運悪く病に倒れ指揮が執れなくなってしまい、挙句の果てに当初乗船することすら拒んだアメリカ人の指揮下に自分の部下をつけなければならなくなってしまった。

病状が快方に向かいつつあったとはいえ、この時の勝は心身ともに相当に衰弱していたはずです。最悪のタイミングで重大な決断を迫られたことになります。それでいて上役の木村には相談すらできないまま独り悶々として決断をするしかないところまで追い詰められてしまったのです。

明らかなことは、今やアメリカ人ブルックに指揮権を譲らねば咸臨丸は航海を続けることはできないということでした。絶対に認めたくないことが現実になろうとしていました。勝にとってこれほどの屈辱はなかったに違いありません。

 

 

勝は幕末維新のことについてあれほど多く語ったり書き残したりしていますが、この時のことについては生涯語ったり、記すことはありませんでした。日記にも指揮権を譲ったとは一言も触れられていません。

恐らく勝の生涯にとって最大の痛恨事であったのでしょう。永く心の深い傷となったことは疑いようのないところです。

 

さて本日は少し長くなってしまいました。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「咸臨丸、海を渡る」 土居 良三 中公文庫

※上手廻し:風上に向かって針路を変える航法の一つ(土居 良三「咸臨丸、海を渡る」P219(中公文庫))から

 

 

※BS時代劇「小吉の女房」-勝海舟はこうして生まれた-のご紹介

 

(NHK BS時代劇ページから)

 

今、NHKBSプレミアム(毎週金曜日夜8時 全8回、毎週日曜日 午後6時45分から再放送)で「小吉の女房」という時代劇が放映されています。

小吉というのは、勝小吉のことで麟太郎(海舟)の父親です。

主役のお信(麟太郎の母親)を演じるのは「科捜研の女」が当たり役の沢口靖子さん、麟太郎の父で破天荒な貧乏旗本である小吉役には古田新太さん。

すでに3回放映済みですが、次回(2月1日)は麟太郎の子供時代のあの有名なエピソードが取り上げられるようです。さてどんな話の展開になるのやら、楽しみです。