こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

さて前回では、再度「別船仕立ての儀」が老中に提出されたところまでのお話でした。出されたのは安政五年(1858年)9月ですが、この頃から安政の大獄が始まるため老中らは、この件にばかり関与しているわけにはいかなくなりました。

この頃、長崎にいた勝が「別船」派遣のことを知り、アメリカ行きを志願する手紙を同年10月に永井宛に、翌11月には水野宛てに書いて猛烈にアッピールしたことは以前にお話ししました。

 

 

【永井と水野からの返書】

 

長崎時代から勝が海外留学を熱望していたことを知っていた永井は勝への返書でこう語っています。

「アメリカ行きの件について、『縷々(るる)御書面の趣』は至極ごもっともで、そこまで言わずとも尊公の永年の想いは長崎時代から熟知している。それゆえ、アメリカ行きには同行させるつもりをしており、名簿にも(勝の)名を挙げている」と勝の熱い想いは充分承知していると宥めています。

その上で、「幕府内では乗組人数や費用のことなどにつき色々と唱える連中がいるので、あまり騒がないでもらいたい」と自重するように求めています。また「水野(忠徳)のみ勝の随行の件はすでに耳打ちしてある」と伝えています。

 

一方、勝から二度の手紙を受けた水野は、

「勝の『旧来の御宿志(かねてよりの志)』はかねてからよく承知しているので特に返事は書かずにおいた。いずれわかることだからそのままにしておいたが悪く思わないで欲しい」と詫びの言葉を述べています。

さらに「玄蕃(永井尚志のこと)へもとくと申し談じ置き候儀にて、拙(自分)においては決心いたし置き候事ゆえ、この上御配慮なき様一寸申上置き候」とアメリカ行きについては自分が請け合うから心配するなとまで言い切り、勝に安心するようにと丁寧に返事しています。

 

永井も水野も外国奉行という幕府の要職にあり、また水野の場合は勘定奉行も兼ねている高級官僚です。それに引き替えこの頃の勝は依然として低い地位に止まったままです。しかし手紙からうかがわれるのは、勝が幕府内の高い地位にある者たちから認められる存在になっていることです。また水野の手紙には年下で低位の勝に対し「御」の字を使用しているのが目を引きます。

こうしたことからも勝は水野ともかなり深いつながりがあったことがわかります。とはいえ勝がそうした関係にあるのは海軍につながる立場にある幕府内の一部に限られていました。

 

 

【左遷人事と水野忠徳の活躍】

 

安政の大獄が始まり、勝が長崎から江戸に戻った安政六年になるとアメリカ行きの話に暗雲が漂い始めます。勝が頼みとした永井や水野が遣米使節から外されてしまったからです。永井も水野も一橋派であったため井伊大老に睨まれ、左遷させられました。

安政六年8月27日、永井は岩瀬忠震(ただなり)と共に最も重い処分である「永蟄居」を申し付けられます。

水野は外国奉行を辞めさせられましたが、代わりに軍艦奉行に就きました。永井の後任で勘定奉行兼任でした。水野の行動は、井伊大老からすれば岩瀬や永井ほどには悪い印象を与えていなかったということでしょう。

 

水野はこの年(安政六年)6月に神奈川奉行も兼任させられていました。前章でお伝えした「ロシア海軍士官殺人事件」は横浜で起きたため神奈川奉行の管轄になります。水野が外国奉行を罷免されたのは、ロシアを始めとする諸外国から外国人警備の不備に関する抗議を受け、その責任を取らされたためです。

 

 

同年9月1日、水野、永井に代わる遣米使節には新見豊前守(正使)、村垣淡路守(副使)、小栗忠順(ただまさ)(目付)が任命されました。これを受けて別船仕立ての儀の復活の機会をうかがっていた水野は再び、行動を起こします。「別船」に関する最初の建議から一年が経とうとしていました。

この頃の幕府人事は目まぐるしく、水野は2カ月後の10月28日には軍艦奉行から西丸留守居役に左遷されています。

しかし、このわずか2カ月間に水野は仕事をしてのけるのです

 

 

【志を受け継ぐ者たち】

 

新たな遣米使節を指名すると幕府内でも、米艦ポーハタン号に随伴する艦の儀が再び議論に上がるようになりました。

 

 

(ポーハタン号)

 

その頃、水野の配下には軍艦奉行並に昇進したばかりの木村喜毅(よしたけ)がいました。水野は木村と共に別船派遣が前年に決まったものとして老中に対し、備品発注の伺いを立てるやり方で巧妙に進めていきました。反対されずに済めば別船派遣を既成事実にしてしまえるという意図があったのでしょう。もはや確信犯ですね。

これを受けて勝は水野から、使用する軍艦の選定、乗組人員数、食料、薪、水等の航海に要する品について見積りを提出するよう命を受けその作業に当たっています。

 

 

岩瀬がハリスに一年以内にアメリカに使節を派遣する提案を行い、それを受け継いだ永井と水野が建議しました。その永井が去った後、水野が木村と共に尽力しなければ「別船仕立ての儀」すなわち咸臨丸が太平洋の波濤を越えてアメリカ大陸にたどり着くことはありませんでした

この構想が国家のための事業であると確信していた彼らは、一旦立ち消えになりつつあったもののその火を消してはならないと心に固く誓っていました。そして前任者の熱い想いを引き継ぐことで周囲の人を動かし、日本人による太平洋横断という一大プロジェクトの実現に漕ぎつけたのでした。老中が別船を米国へ派遣する方針に変わりがないことを伝えたのは水野が軍艦奉行の任を解かれる数日前のことでした

 

 

同年11月4日、水野の後任として軍艦奉行に就いたのは水野の同僚で元・外国奉行の井上清直でした。井上は先に小普請組奉行に左遷されていましたから、これにより再び中央政界に復帰したことになります。

井上は水野の意志を受け継ぎました

軍艦奉行に就任した3日後の11月7日、早くも別船乗組み名簿と石炭などの必要な物品の見込を木村と共に提出しています。その名簿の筆頭に記された名は無論、勝 麟太郎でした。

こうして高い志を持った者たちの心のバトンは逆風の中でも見事に受け継がれていったのです。

 

さて本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟全集8 海軍歴史Ⅰ」 講談社

・「咸臨丸、海を渡る」 土居 良三 中公文庫