こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

さてようやく咸臨丸のお話をできるところまでたどり着きました。

ここまでこんなに回を要するとは思っていませんでした(笑)

さて話を前に進めるといたしましょう。

ところで咸臨丸がアメリカに向けて出航するまでにはいくつものクリアしなければならない難題がありました。我が国始まって以来、初の軍艦による太平洋横断という一大プロジェクトを実現させるのですから、簡単に事が進んだと考える方が不自然というものです。でも多くの勝海舟に関する本ではこの辺りのことは省略されています。

 

そこでこの章ではいかにして咸臨丸の出航が決まり、そこに至るまでにどんなことがあったのかを取り上げます。

勝はここで自分が徳川幕府という大組織の中でどんな立場にあるかを嫌という程知らされ、悪戦苦闘の日々を送ります。いわば「勝・奮闘編」です。会社などの組織で働いている方々にはきっと思い当たったり、身につまされたりすることがあるかもしれません。そうした意味では勝のことをより身近に感じていただけるのではないかと思います。

なお進行の都合上、一部前章でお話した内容と重複しますが、その点はご容赦下さいますようお願いいたします。前置きが長くなりました。ではスタート!

 

 

【別船仕立ての儀】

 

日米修好通商条約が締結され(安政五年6月19日)、そのため批准(ひじゅん)使節がワシントンに派遣されることになりました。批准というのは、二国間条約の場合、双方の全権代表が署名した条約を国家が承認する行為のことで通常、批准書の交換という手続が行われます。

この批准書交換をワシントンで行い、そのための使節を一年以内に派遣しようという提案は、意外なことにアメリカ側からではなく日本側から行われました。この大胆な提案をしたのは誰あろう岩瀬忠震(ただなり)でした。岩瀬は「その使節は水野(忠徳)と私が赴く」と申し出て、ハリスを大いに喜ばせました。

開明派官僚の中で最も先進的な考えの持ち主であった岩瀬は、使節の一員としてアメリカに渡った後、ヨーロッパを訪れ外国を自分の目で視てみようとする意欲にあふれていたのです。

しかしその後、岩瀬は外国奉行から作事奉行に左遷させられたためにその夢を実現することはできませんでした。

 

 

後を引き継いだのは同じ外国奉行であった水野忠徳(ただのり)永井尚志(なおむね)の二名です。

幕府がこの両名(と二人の目付)に、

「亜米利加(アメリカ)国へ本条約取替(とりかわ)しの為差遣(さしつか)わされ候に付き用意すべき旨」

というワシントン行きの命が発令されたのは同年8月23日でした。

命を受けた四名は、その後速やかに連名で老中に「別船仕立之儀」の上申を行っています。その内容はというと、

もともと正使副使の遺米使節はアメリカ軍艦に乗艦し送迎してもらうことになっていたのですが、それとは別に徳川幕府として軍艦を一隻仕立てアメリカに派遣しようという建議でした。

その建議書には、築地にある軍艦操練所の教授陣を中心に日本人の手で太平洋を渡る航海を経験させてみたいという熱い願望が籠められていました。

 

水野と永井には海軍建設に関与してきただけにその想いが強くありました。

水野は長崎奉行として海軍伝習所をつくるためのオランダとの交渉を最初に担当した人物。また永井は初代の長崎海軍伝習所所長に就任し、その後幕府が江戸で軍艦操練所を開設すると責任者に就いた人物です。

両者にはともに幕府海軍の草創期を支え、自分が幕府海軍の「育ての親」という自負があったはずです。歩み始めたばかりの海軍をさらに発展・充実させるためには、彼らにさらに経験を積ませアメリカで学ばせる必要があると考えたのです。現代でいう「短期留学」のようなものです。

 

 

彼らが提出した建議書に書かれていた内容は、以下の通りです。

 

・日本がオランダ海軍から航海術を学んだことは広く外国に知られており、アメリカにすべて頼ってわが国から一隻の軍艦も出さないのは「後々までの御声聞(ごせいぶん)にも拘(かか)わ」る。

・それは「誠に以て残念の儀に存じ奉り候」ゆえ、アメリカ軍艦とは別に日本人による軍艦をぜひ仕立て渡航させてみるべきである。

・幕府海軍の幹部らをアメリカに派遣し、現地で軍艦、海軍の法制等を実地見聞させれば多くの発見を得て、これからの幕府海軍の建設が大いに捗(はかど)ると予想できる。

・このプロジェクトに要する費用は額になることが見込まれ、時節柄、費用の捻出は決して容易ではないことは承知している。だが(将来を考えれば)大きな成果がもたらされることが期待される。

・そのため「御英断を以て別船御仕出の儀仰せ出され候様仕り度(たく)」

 

と願い出たのです。

 

しかし、案の定というべきかこの建議は老中により「再考せよ」とあっさりと拒否されてしまいました。

 

理由は明快でした。

 

3年程度のわが国近海での航海訓練だけで太平洋の荒波に乗り出すことは大胆に過ぎ危険であること。

陸地が見えない洋上では位置確認も困難で、目的地に向かって針路を取ることができないため遭難するかもしれないこと。

そうなればむしろ海軍建設の妨げとなってしまうというものでした。

 

老中からしっぺ返しを食らった恰好になったものの、そんなことくらいで簡単にあきらめる水野や永井ではありません。航海上の不安を解消できるだけの測量技術があるかどうかを操練所の教授方に打診した上で、次なる上申書を再提出しました。

 

二度目の上申書では、遠洋航海に不可欠な測量技術は高い水準にあると力説し、正使が乗艦する船と別船が海上で離れることがあっても見失ったままになることはないと主張しています。

操練所の教授方らは蒸気機関を利用した操船の運用術をマスターしており、航海前に定めた針路から離れても本来の位置に立ち戻ることができるだけの測量技術も備えているから大丈夫だ、と。

いささか強気過ぎる主張にも思えます。

こうした主張の裏付けとなったのは、伝習所出身の彼らがかつて長崎でペルス・ライケンやカッテンディーケから高い評価を受けていたことを水野と永井が聞き及んでいたこと。また測量技術に関しては真に頼りになる人材がいたためです。

 

 

(小野友五郎 ウィキペディアより)

 

 

遠洋航海では、緯度を測る六分儀、経度を測る時辰機(クロノメーター)を使用して海上にあっても自船の位置を求めることができます。この測量術に関する能力がひときわ高くかったのが数学を得意としていた小野友五郎です。小野は天文方出役として勝と共に長崎海軍伝習に第一期生として参加しています。勝より年長で周囲からの信頼が厚く、咸臨丸で渡米する航海においてもその力をいかんなく発揮しました。現実の太平洋横断は彼らの予想を超える大変困難に満ちた航海となったのですが、その中で小野の奮闘ぶりは目覚ましいものがありました。咸臨丸に同乗したアメリカ人ブルック大尉も高く称賛したほどですが、そのことは後日触れることにします。

 

 

今回も少し長くなってしまいましたが、ここまでとしましょう。本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟全集8 海軍歴史Ⅰ」 講談社

・「幕臣列伝」 綱淵 謙錠 中央公論社

・「咸臨丸、海を渡る」 土居 良三 中公文庫

 (今回の記述に際しては、上記の著作を参考にさせていただきました)