こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
陰暦と陽暦の違いこそあれ、今から151年前の10月14日は「大政奉還」があった日です。
さて勝の話に戻ります。
勝が、安政六年9月22日に佐久間象山宛に出した書簡にはこんな記載があります。
「先にお約束していた蘭書、入手次第差し上げるつもりでいましたが、にわかに駿河表へ出張することになりました」と蘭書を渡すことができない事情を伝えた上でこんな風に書いています。
「武器ござ候て蒸気船にて出航、帰府も一ヶ月位と見込候ところ、蒸気機関少々手入れいたし候ところこれあり。これに取り掛かり、豆州戸田にて碇泊、ようやく当月(9月)十七日帰府し候」。
注目すべきは、冒頭の『武器』という言葉です。これが何を意味するのか。前回お読みいただいた方にはもうおわかりでしょう。ディアナ号の大砲であることは疑いがないところです。では勝が幕府から受けた命令は何であったのか。そしてそれは大砲とどんな関係にあるのでしょうか。
そのことを話すには、まず当時つまり安政六年という年がどういう年であったかを考えてみる必要があります。この年は実に「多難な一年」であったといえます。すでに前章でお話したように安政六年は安政の大獄の嵐が吹きまくった年です。内政面では井伊大老の恐怖政治が続き、国内の政治状況は大揺れに揺れていました。
国内がそんな大変な混乱にあったさ中の同年7月27日、横浜で上陸中のロシア海軍士官とまかない担当の水兵の三名が襲撃され、うち二名が命を落とすという事件が発生しました。
【ロシアの脅威に腐心する幕府】
幕末には多くの外国人殺害事件が発生しますが、この事件はその最初となるものでした。当時、日本人の中には外国人を排斥するいわゆる攘夷思想を持つ者が多くいました。徳川斉昭などはその代表的な攘夷論者でしたが、幕府内でも老中阿部正弘が国防問題を論じる参与としての立場を与えたことから、その発言は大きな影響を持つことになりました。御三家の一つである水戸藩の藩主を務めた人物で幕政にも関わる立場ともなれば国家のことを憂えて、軽はずみな発言は慎まねばならないところです。ですが斉昭はディアナ号が津波を受け帰国できなくなったロシア人を襲えとさえ口にすることがありました。こうした斉昭の考えの影響を受けて外国人を殺害することが攘夷実行だとする単純で幼稚な攘夷を唱える者たちが現れ始めるのです。この事件の凄惨さは言葉にするのも憚られるほどで、この頃の一部の日本人が抱く外国人に対する感情をあらわす象徴的な事件と言ってよいかもしれません。殺された二名の士官はいずれもめった切りされていました。遺体の状況からうかがわれることは、単に殺害するだけでなく外国人を憎悪の対象として血祭りにあげることを目的として襲ったとしか思えないものであったことです。生き残ったロシア兵は、「一度たりとも日本人と口論した覚えもなく、何が原因でこの災難に遭ったのか全然思い当たる節ない」と語っています。
この事件をロシアが問題にしないはずがありません。この事件が起きる少し前、ロシアの東シベリア提督ムラヴィヨフが9隻の艦隊を引き連れ江戸湾に姿を現し、停泊していました。ロシア側からの報復が予想される中、日露間で戦争が勃発するかもしれないという極度の緊張感に幕府は包まれました。江戸湾に停泊するロシア艦隊の大砲がいつ江戸の町に向けて火を噴くかもしれない恐怖が幕閣にはありました。
勝が幕府から朝陽丸での駿府出張を命じられたのはこうした状況にあった時期です。となれば勝に対して幕府が命じた任務が何であったかが自ずと浮かび上がってきます。
上垣外憲一氏はその著書「勝海舟と幕末外交」の中で、安政六年7月から9月にかけての勝の出張目的は、ディアナ号から外されていた大砲52門を江戸に輸送することにあったと推測されています。
万一、ロシアとの間で戦争が勃発した場合に備えて江戸湾防御を固める必要に迫られた幕府は、急ぎ砲台に大砲を装備するための命を勝に下していたことになります。
前回、お話したようにこの大砲はヘダ号建造に対する感謝としてロシアから贈答されたものです。皮肉にもそんな友好の絆となった大砲がロシア艦に向けられることになったのです。
ここで疑問が一つ生まれます。
一体、砲台からの攻撃は外国艦隊に対してどの程度有効なものであったのかということです。自由に艦隊運動を行う軍艦に対して陸地に固定された砲台から攻撃するには、砲兵が習熟した技術を備えていなければなりません。命中率について高い精度が求められるわけです。つまり動く標的に対して砲台から行う攻撃がどの程度有効なのかが問題となるのですが、実験するのは困難です。
ところが、その頃、幕府をいやそれ以上に水戸藩と攘夷派を大いに勇気づける情報が海外から寄せられました。イギリスが清国との間で戦闘状態が発生し、中国側が砲台から放った攻撃によりイギリスの軍艦三隻が撃沈されるというニュースがもたらされたのです。不意の攻撃を受けたイギリス軍は応戦したものの大きな損害を出し、相当に深い痛手を蒙りました。この事件は清国と天津条約の批准書の交換するためにイギリスの使節団が北京に向かう途上で起きた事件です。清国はこれまでイギリスにやられっぱなしだったのですが、ようやく一矢報いたことになります。
こうした背景があったことを考え合わせると勝が幕府から与えられた任務の重さは決して軽いものではなかったことがわかります。
象山宛の手紙には、「俄(にわか)に駿河表へ相廻り候に武器御座候て蒸気船にて出航」とあることから、軍事機密にかかる緊急の出張であったことがうかがわれます。長崎海軍伝習所出身で砲台設計の技術者として指導実績があった勝がこの任務の最適任者として起用されたのは、当然のことであったと言えます。
このように見てくると安政六年という年は、実に内憂外患の年であったことがわかります。国内は安政の大獄で揺れており、政情不安のさ中にあり、対外的にはロシアから報復行為を受け、戦争に至るかもしれないという危機をはらんでいたのです。
さて本日はここまでとし、続きは次回にお話することにします。
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟と幕末外交」 上垣外憲一 中公新書
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