こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

少し寄り道が長かったので勝のことをどこまでお話したか、忘れそうになりそうですが、一つ前の章では長崎海軍伝習所が閉鎖されることになったところまでをお伝えしました。

一方、長崎でアメリカへの使節派遣の情報をつかんだ勝は、願ってもない海外渡航のチャンスが到来したと嵐の海を航海し江戸に戻ってきます。しかし、この後すんなりと咸臨丸での渡米が実現したわけではありませんでした。

 

 

【勝が帰府した頃の江戸の政情】

 

長崎海軍伝習所が正式に廃止されたのは、勝が命からがらの航海で江戸に帰って来た翌月、安政六年2月(1859年)のことです(第40話)。

その頃の江戸は、「安政の大獄」の嵐が吹き荒れていました。

勝は当時、自分の周辺で起きた身近なことを『牆の茨の記(まがきのいばらのき)』という著作にまとめていますが、この頃の状況についてこんな風に書いています。

 

「旧知の者を訪ねて昨今の時勢のことを尋ねてみたところ、誰もそうした話題について語るのを嫌って避けるか、あるいは本当に知らないのか、眉をひそめて語ろうとする者がいない。以前には要職にあった者も今は事態を静観し、(いつ自分が睨まれかもしれないと)恐れているようだ。今もてはやされる連中は語るに足りない軽薄な者たちだけだ。世間の人の頼りにならないことを今さらのように知らされ驚いている」 

 

 

勝は江戸で安政の大獄の嵐が吹き荒れていた頃、そのほとんどの時期を長崎で過ごしました。そのことが幸いしたと言えます。もともと勝自身は将軍継嗣問題について南紀派でも一橋派でもありません。というよりはこの頃の勝は幕府という大組織の中ではそのようなことに口が出せるほどの地位に就いていなかったと言う方がより正確でしょう。下っ端の幕府役人に過ぎなかったわけです。

ただ勝が阿部正弘に見出され、大久保忠寛の推挙を受けて起用された経緯からすれば、一橋派につながる立場にいたことにはなります。また鹿児島訪問をした際に島津斉彬と会い、話し合った内容が洩れ中央に通報されていたなら勝も何らかの処分を受けずに済むことはなかったでしょう。

 

 

【米国渡航の話はどこから始まったか】

 

勝が江戸に帰府することになったのは、幕府が長崎海軍伝習所を廃止することを決定したためですが、勝個人には今一つ急ぎ帰らなければならない理由がありました。

日米修好通商条約の締結により、その批准使節がワシントンに派遣されることになったのです。使節に指名されたのは、外国奉行に任命されていた水野忠徳(ただのり)と永井尚志(ながおね)の二名でした(安政五年8月23日)。使節はアメリカ軍艦に乗艦することになっていましたが、水野と永井の両名は、日本からも「別船」を出し太平洋を横断しアメリカへ渡らせようと幕府に提案したのです。水野は長崎奉行として、また永井は伝習所初代所長として海軍建設に関わってきたので、両者には幕府海軍の新たな歴史をつくろうとする熱い想いがあったとしても不思議ではありません。

意見書は一旦却下されたものの再度、建言し許可を取り付けたのです。この時の幕閣責任者は井伊大老ですから、開国派で外国との戦争を回避することを第一とした井伊も海軍の必要性は認めていたことになります。

「別船」を派遣する今一つの理由として、「諸外国は幕府が長崎海軍伝習を三か年も行っていることを周知しており、批准書の交換にあたって、日本側から船を一艘も出さないのは国際的な評価に関わる」(「幕末の海軍」神谷 大介)という事情もあったようです。

 

 

(水野忠徳と永井尚志)

 

 

ところで、この「別船」情報を勝はいつ入手したのでしょうか。

江戸の海軍操練所から矢田堀鴻(景蔵)が観光丸の艦長として長崎に入港したとき、カッテンディーケを驚かせる程の操船技術の高さを見せたというお話を以前にしたことがありますが覚えておられるでしょうか(第39話)。その矢田堀が長崎に着いたのは安政五年10月15日です。勝はこの頃、福岡までの航海訓練を行う準備をしていましたからこのときに知ったはずです。

外国を自分の目で見てみたいと強く願っていた勝は、居ても立ってもおられぬ氣持ちでアメリカ行きを志願します。福岡からの航海を終えた勝は直ぐに伝習所で上司であった永井尚志に宛てた手紙を書きました。その後、紆余曲折はあったものの水野忠徳が勝の熱い想いに応えアメリカ行きのメンバーの一人として名簿にあることを伝えたのは、同年12月下旬でした。同時に水野は使節派遣の実施時期が翌年秋頃まで延期されるだろうとも伝えていました。この年(安政五年)は、安政の大獄のさ中にあり、幕府としてもとても使節派遣のことにまで手が回らない状況ににあったためです。

 

皮肉なことに使節派遣が延期された結果、「別船」提案を行い、批准使節に指名されていた水野と永井の両名はアメリカに行くことができなくなりました。一橋派の開明派官僚たちは井伊大老によって左遷されたからです。代わって使節に任命されたのは、正使に新見正興(にいみ まさおき、豊前守)、副使に村垣範正(むらがき のりまさ、淡路守)でした。ハリスは交流があった岩瀬や永井にアメリカに行ってもらいたいと思っていただけにすごく残念がったと言われています。(海軍歴史「解題」)。 

 

そして目付として使節に随行したのが、小栗忠順(おぐり ただまさ、豊後守)です。小栗という人物は明敏な頭脳を持ち、帰国後は幕府の要職を歴任する実力者となっていきます。勝海舟にとって手強い政敵となるのですが、それは数年後のお話です。

 

 

(小栗忠順)

 

 

安政六年(1859年)11月、「別船」の乗組員のメンバーが正式に決定します。その乗組員の指揮官は、もちろん勝麟太郎です。ですが勝は「艦長」ではなく「艦長格」でした。当時の身分上の問題が影響してくるわけですが、本日はここまでとし次回その続きをお話しましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

さて次回は一つの区切りとなる50回目を迎えます(パチパチ👏

それを記念してちょっとしたお知らせをしようと考えています。現在準備中ですので(間に合うかどうかちょっと気がかりですが…(笑)楽しみにしていて下さいネ。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟全集2 書簡と建言」(牆の茨の記)講談社

・「勝海舟全集8 海軍歴史Ⅰ」 講談社

・「幕末の海軍」 神谷 大介 吉川弘文館